阪神・淡路大震災では、1928年の第1回全日本学生テニス選手権大会を制した初代王者も犠牲となった。上原夏太さん(76)=神戸市東灘区=の父増雄さん=当時(86)。大学卒業後はラケットをほとんど握らず、上原さんら5人きょうだいを育て上げ、定年後、日本テニス協会の常務理事などを歴任。国別対抗戦の日本代表チームも率いた。テニスに打ち込んだ上原さんにとって、増雄さんは見上げる存在だった。(千葉翔大)
毎朝6時ごろ。上原さんは増雄さんの仏前で手を合わせる。今も欠かすことはない。
「悔しくて、悔しくて、悔しくて、30年前は息が吸えないくらい泣いたから」
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上原さんも高校からテニスを始めた。71年、増雄さんと同じく全日本学生選手権大会の決勝に進出。惜敗し、親子2代の王者という夢はかなわなかったが、26歳で一線を退くと、定年後の父と2人でテニスクラブを運営した。その後、上原さんは独立し、テニススクールを開いて生計を立てた。
95年のあの日、上原さんは家族5人で、神戸市東灘区にあった木造2階建ての実家で寝ていた。
「ミシ、ミシと鳴って、マッチ箱をつぶすようなグシャーという音がした」
1階の居間で目覚めると、築70年ほどの家を支えていたはりが、大きくずれ、家の壁に突き刺さっていた。
窓から外にはい出た。家は、四方が真ん中になだれかかるように崩れていた。2階にいた妻子は無事だった。ただ、1階で寝ていた増雄さんの姿がない。
折り重なった家財はびくともせず、隙間一つ見つからない。「父さん、父さん!」。何度も叫んだ。
増雄さんは3日後、家屋の下から運び出された。圧死だった。はっきりしないが、遺体は畳か雨戸に載せられていた。
震災後、兵庫県内ではテニスコートに仮設住宅が建てられるなどした。上原さんは職を失い、妻のふるさとの大阪府枚方市に一家で身を寄せた。
妻はパートに出るようになり、慣れないレジ打ちの仕事に四苦八苦した。「大変だったろうに。自分は妻のパート代を待つことしかできなかった」
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96年冬、神戸のテニスクラブから誘われ、60代まで支配人を続けた。自宅の再建費用、子ども2人の養育費…。家族を支え、夢中で働いてきたが「父さんを失った痛み、つらさは体に刻み込まれている」。やり場のない喪失感にさいなまれるたび、「世間は冷たい」と自らに言い聞かせた。「震災前より自分の性格、悪くなったんとちゃうかな」
今も手元に残る写真がある。20代前半とみられる増雄さんが精悍(せいかん)な顔つきで納まっている。震災後、自宅のがれき下から見つけた。
裏面には「関西テニス選手権大会 三年連続優勝」などと書いてあった。増雄さんの文字だという。
「うれしかったんやろうなぁ…」。上原さんはそう言うと、父の字にそっと指を重ねた。