「特攻の父」と呼ばれた大西瀧治郎(1940年ごろ)
「特攻の父」と呼ばれた大西瀧治郎(1940年ごろ)

 太平洋戦争末期に日本軍が編成した神風特別攻撃隊(特攻隊)は、搭乗員が航空機ごと艦船に体当たりした部隊の総称で、日本側だけで約4千人が戦死したとされる。作戦の生みの親とされ「特攻の父」とも呼ばれた海軍の大西瀧治郎中将は丹波市青垣町出身だ。終戦直前まで作戦と戦争の継続を訴え、玉音放送翌日の1945年8月16日、隊員と遺族に謝罪の遺書を残して割腹自殺した。特攻隊や大西の人生からどのような教訓を読み取ることができるのか。戦史や近現代史に詳しい40代の2人に聞いた。(井原尚基)

体当たり攻撃指揮、終戦翌日に割腹自殺

 姫路海軍航空隊の特攻隊「白鷺(はくろ)隊」の63人が21機で飛び立った鶉野(うずらの)飛行場(加西市鶉野町)跡にある平和学習施設「soraかさい」で今月上旬、終戦がテーマの特別展が開かれた。

 展示パネルを執筆した「鶉野平和祈念の碑苑保存会」メンバーの会社員渡辺真一さん(41)=加古川市=は、戦史好きが高じて大西や特攻隊に興味を持つようになった。

 渡辺さんは、捕虜になるくらいなら死ぬべきだという行動規範「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」が支配していた旧日本軍内で、特攻を始める前の大西が「捕虜になっても生きて戻ってこい」と部下に指導したエピソードに着目し、「大西は本質的には合理的な考え方ができる人だった」とみる。