1945年8月6日、広島に原爆が投下されてからきょうで80年になる。長崎も9日に節目を迎える。原爆は二つの都市を瞬時に破壊し、同年だけで約21万人の命を奪った。核廃絶を訴えてきた被爆者も次々と鬼籍に入り、被爆者健康手帳を持つ人は初めて10万人を下回った。
そんな中、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が昨年、ノーベル平和賞を受け、関係者に勇気を与えた。健康被害だけでなく差別とも闘ってきた被爆者の魂の叫びを、未来へと伝えていく必要がある。
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この夏に96歳になる兵庫県被団協前理事長、岡邊好子(おかべよしこ)さん=宝塚市=は今も講演に立ち続ける。自ら結成した宝塚市原爆被害者の会はメンバーの高齢化などで2年前に解散したが、被爆の実相を知ってほしいとの強い思いに突き動かされている。
「立ったまま気合を込めて話すので、講演後は数日間動けなくなる。でも足が動くうちは伝えたい」
岡邊さんは広島の爆心地から約1・5キロの自宅に姉妹といた。倒壊した家屋からはい出ると、一面のがれきに焼けただれた遺体が散乱していた。外出先から帰宅した母は皮膚がめくれ、鼻や唇が変形していた。
避難先の小学校では、全身にやけどを負った人たちが十分な治療を受けられないまま横たえられていた。その中に瀕死(ひんし)の父と長女の姿もあった。長女は奇跡的に回復したが、父は終戦3日後に息を引き取った。
■被爆証言支える責務
岡邊さんは講演で、裸のまま亡くなった父を強く抱きしめたと語った。何もしてあげられなかったとの自責と後悔の念が今も胸にある。
「こんな思いをもう誰にもさせたくない。語らずにはおけない」
戦後は、母や姉妹とともに後遺症とみられる病気に苦しめられた。被爆者への差別にも遭った。「ピカドンがうつる」と陰口をたたかれ、縁談も断られた。
岡邊さんら被爆者の証言は、核兵器の非人道性を物語る。唯一の戦争被爆国として「核廃絶」を訴える日本は活動を支える責務がある。
しかし米国への核依存を強める日本政府は開発や保有、使用を禁じる核兵器禁止条約に背を向け続ける。その姿勢を改め、「核なき世界」実現の先頭に立たねばならない。
■病態研究の礎に光を
被爆者の苦しみを医学者の立場で伝え続けた人がいる。姫路市出身の東大名誉教授、都築(つづき)正男博士だ。米軍の情報統制下、実態を解明しようとした功績にもっと光を当てたい。
広島で被爆した10日後に東大病院へ入院した俳優の女性を診療した都築博士は、白血球数の異常な低下に驚く。大きな外傷はないのに入院8日後に死亡した女性を、世界で初めて「原子爆弾症」と診断した。
博士は直ちに広島入りし、被爆者の診療に当たるとともにデータを収集する。浮かび上がったのは、残留放射線による健康被害だった。
原爆投下後に救援に入った人らに死者が出ているのは、被爆地に残る放射線が原因と博士は疑った。だが米軍の公式見解は「残留放射線による原爆症は存在しない」だった。後に高い放射線量を示すデータを隠していたことが判明する。
米軍は原爆の残虐性への批判をかわし、兵器の威力を秘するため、日本側の研究や発表を禁止した。「今も多数の被爆者が死亡している。人道上許されない」との博士の反論が関連資料に残されている。
原爆は長い間、被爆者に苦しみを背負わせてきた。核兵器を絶対悪とすべき理由はここにもある。占領後、博士が米軍の調査にも協力したことへの批判もあるが、博士の業績を常設展示する姫路市平和資料館の三河美徳(よしのり)館長は「国の枠を超え、被爆者を救おうとした使命感、責任感を今後も伝えていきたい」と語る。
世界では再び核軍拡が進行し、核戦争のリスクも高まる。厳しい現実が立ちはだかるが、原爆の本質を伝える記憶や記録を国民共有の財産として受け継いでいく。その重要性をより危機感を持って考えたい。