投稿コーナー「私も生きヘタ?」
「自分らしさを心の真ん中に」
「プレッシャー」との向き合い方について元モーグル日本代表の上村愛子さん(伊丹市出身)に聞く
「なんでこんな一段一段なんだろう」。2010年のバンクーバー五輪で4位になり、試合後にこうつぶやいた元フリースタイルスキー・女子モーグル日本代表の上村愛子さん(43)=伊丹市出身。冬季五輪に5大会連続で出場し、いずれもメダルを期待されながらも届かずに「メンタルの弱さ」を指摘されることもありました。「プレッシャーに押しつぶされていた」「モーグルが好きな気持ちが見えなくなっていた」。そう振り返る上村さんが、自分の心との向き合い方を語ってくれました。
-長野五輪7位、ソルトレークシティー6位、トリノ5位、バンクーバー4位、ソチ4位でした。「なんでこんな-」のコメントもありましたが、上村さん自身が感じていたメンタルの弱さとは?
「(高校3年で)初出場した長野五輪の時は感じなかったのに、その後のオリンピックでは弱い自分が出てきました。緊張して、手が冷たくなったり、呼吸しているだけで力が抜ける感じがしたり。自分が勝手に作ったプレッシャーに押しつぶされている状況だったと思います」
「『メダルを取れなかったらどうしよう』という後ろ向きな気持ちが湧いてきて、そうなったときに周囲にどう思われる?どうなる?と想像して怖くなりました。練習を積み重ねてきているし、普段のワールドカップでは勝つことができている。こんな気持ちに一切なりたくないのに、オリンピックの4年に1回だけ出てくるんです。1~3位に入るには、そんな気持ちを持っていたらだめなのに…」
「ワールドカップの種目別年間優勝を経験し、これまでで一番メダルに近いと思って臨んだバンクーバー五輪も、緊張し、手がザワザワして、血の気が引く感じがしました。メダルが取れたら引退と思っていましたが、4位でした」
-当時の自分をどう見ていますか?
「よろいを着けて戦っていたと思います。自分のままでは勝てない、違う強さを身に付けないといけないと考え、足りないものを足して、どんどん更新して。パズルを完成させていくような感覚もありました。でも、パズルのピースが多すぎて、モーグルが好きとか、オリンピックを目指す気持ちとか、自分らしさが見えない状態だったと思います」
「自分が想像する強いアスリートに近づくため、喜怒哀楽の波を平行にできるようにもしました。泣かなかったし、笑わなかったし、怒らなかった。でも、結局、大事なところで心が不安定になるのをクリア(克服)できませんでした」
-1年休養しましたね。
「よろいを脱いで、今までの当たり前から離れ、トレーニングは一切せず、スキーはやりたい時に滑る。そうして過ごしながら、手帳には同じ言葉を何度も書いていました。『自分らしく』と書いて、続きが出てきません。どんな自分でいたいのか、迷っていました」
-転機はありましたか?
「彼(夫でトリノ五輪入賞の皆川賢太郎さん)や友人とスキーをした時、何げない会話の中で『やっぱり愛子は、こぶを滑るのが本当にうまいね』と言われて…。16年間こぶを滑ってきて、私が積み重ねてきたものは、他にはない。大きなけがもなく、チャレンジできるならまたやってみようかな、と思えました。また、雪や山を見て滑っていると、きれいだな、幸せだな、と感じました。張り詰めた生活の中で、忘れてしまっていたんですよね」
-ほかには?
「東日本大震災があり、1カ月後、東北に支援物資を持って行きました。自分が元気を与えられるなんて思ってないし、とにかく足りないものを届けようと。名乗らず、帽子をかぶって、配っていました。そうしたら『上村愛子ちゃんじゃない?』って気づかれて、『五輪いつも見てたよ。次も出るんでしょ? 応援してるからね』って。1人でもそういう気持ちで自分を見てもらえるなら、次のオリンピックの舞台に元気に立っていたい、自分にできるのはそれしかない、と思いました」
-復帰後は?
「バンクーバー五輪では壮大なパズルを作っていたのが、ソチ五輪では、モーグルがものすごく好きとか、自分がオリンピックに出たいから頑張るとか、シンプルなピースだけが残りました。自分らしさを心の真ん中に置くと、トレーニングも楽しかった。メダルを取れなかったらどうしようという気持ちはなく、試合前にも弱い心は出てきませんでした。やり切った気持ちになりました」
-生きづらいと感じている人にメッセージを。
「私は喧騒(けんそう)から離れて山の近くにいると、心が落ち着き、自分はこうしたいとか、泣きたいんだな、笑いたいんだな、と気付くことができます。忙しくてずっと頑張っていると、自分を見失ってしまいます。煎茶を飲んだり、空を見上げたり、短い時間でもいいからホッとのんびりして、心の真ん中に自分らしさを置くことが大事だと思います」
(聞き手・中島摩子)
【うえむら・あいこ】 1979年、伊丹市生まれ。2歳の時に長野県に引っ越し、スキーを始める。中学3年でナショナルチーム入り。初出場の長野五輪は7位。ソルトレークシティー五輪6位、トリノ五輪5位、バンクーバー五輪4位で、「なんでこんな一段一段なんだろう」という試合後のコメントは、新語・流行語大賞の候補にも選ばれた。ソチ五輪4位の後に引退。東京都在住で、冬場などは長野県白馬村に長期滞在している。2014年から伊丹大使。