戦後75年企画 沖縄戦描く映画「島守の塔」
■過酷極めた南部撤退
1945(昭和20)年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸した。少し前から那覇への空襲や艦砲射撃が激化し、島田叡(あきら)知事ら県職員は地下壕(ごう)に移っていた。上原徹(86)=沖縄県浦添市=が、少年警察官として配属されたのは、そのころだ。
当時16歳。深刻な人員不足を補うため、沖縄では「根こそぎ動員」と呼ばれた大がかりな防衛召集がかけられ、鉄血勤皇隊、ひめゆり学徒隊など若者も戦場に駆り出された。
「まだ子どもでもあり、水くみや野菜取りをしていました」。壕の中に狭い知事室があり、時折、島田に食事を運んだ。近くで寝泊まりしていたが、知事の部屋は他の幹部と違い、カーテンがいつも開いていた。
激しい攻撃で、壕内にも爆音が響いた。上原は恐怖を感じたが、姿勢を正し、静かに読書をする島田の姿を覚えている。
5月中旬、上原は糸満署勤務を命じられる。島田に転属を報告した。島田は黒砂糖が入った紙包みを手渡し、「体を大切にしなさいよ。気をつけて」と言葉をかけた。上原は思う。島田は「生きなさい」と言いたかったのではないか、と。
◇
急速に戦局が悪化する中、沖縄を守備する第32軍は司令部を置く首里から本島南部への撤退方針を固める。南部には多くの住民が避難していた。島田は「県民の犠牲を大きくする」と反対したが、沖縄戦を「本土決戦への時間稼ぎ」とみていた軍の方針を覆すことはできなかった。
5月27日。第32軍は撤退を開始する。糸満署員だった上原は、避難する住民らの道案内に当たっていた。梅雨の中、幼子を背負う母親、両手に荷物を抱えた老人らが泥にまみれ南を目指していた。
「まるで死の行進でした。南へ行っても安全な場所があるわけではない。軍に壕を追い出された人もいた」
軍民が入り乱れての過酷な南部撤退。「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の攻撃にさらされ、住民の犠牲は5月下旬以降、急増する。
上原も生き延びるのに精いっぱいだった。
「最大の被害者は母子でした。子どもの食糧と、親子が避難できる場所を探す必要があった。島田さんは県民の犠牲を防ごうと心を砕かれたが、軍は守ろうとしなかった」=敬称略=
(津谷治英)
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