戦後75年企画 沖縄戦描く映画「島守の塔」
■島田元知事の功績 後世に
初夏の太陽が照りつける4月中旬、那覇市の那覇高校・同窓会館に次々とはがきが届いていた。6月に沖縄県で開く「第1回島守忌(き)俳句大会」への応募だった。太平洋戦争末期、住民の生命保護に努めた神戸出身の島田叡(あきら)・元沖縄県知事らをしのぶために企画された。
悲惨な戦場、平和への願い、基地問題…。思い思いの言葉を託した句は1300を超えた。神戸、姫路、豊岡など兵庫からも700以上が寄せられた。実行委員会事務局の名嘉山興武(なかやまおきたけ)(72)は、ある句に目が留まった。
「ガマ深く 黒糖ひとつ 島守忌」(神戸市西区・東かつじ)
住民を巻き込んだ地上戦があった沖縄では、20万人以上が犠牲になり、県民の4人に1人が亡くなった。ガマは「鉄の暴風」と呼ばれる砲爆撃から人々が身を隠した洞窟。黒糖は、飢えの中で命をつないだ非常食だ。島田が自分の黒糖を若い部下に分けた逸話も残る。名嘉山は「俳句の力で戦史を後世に伝えられる」と確信した。
戦禍の中、住民目線の行政を実行したのが島田だった。戦局悪化を熟知して赴任。疎開、食糧調達に奔走し、最後まで県民と生死を共にした。今も「島守」とたたえられる。
名嘉山は終戦の年の1945(昭和20)年に疎開先の大分県鶴崎町(現大分市)で生まれ、一家9人も生き延びた。疎開推進のおかげと感謝する。その後、島田の故郷兵庫と縁を深める機会に恵まれる。
沖縄が本土復帰した72年、両県は「友愛提携」を結び交流キャンプを始めた。夏は兵庫の青年が島の戦跡を訪ね、冬は沖縄の若者が但馬の雪山を満喫した。沖縄県教育委員会に勤めていた名嘉山も、何度か団長として付き添った。
戦後も沖縄は米軍の事故、兵隊の事件が絶えなかった。そのたびに怒りがこみ上げていただけに、兵庫の温かさは身に染みた。それは、キャンプに参加するうちに知った島田の行動と重なった。
「この絆を守りたい」と、島田の追悼行事にかかわるようになった。戦後70年の3年前は、那覇市の「島田叡氏顕彰碑」の建立活動に参加。碑文を前に仲間から「今度は言葉で島田さんの功績を残そう」と、俳句大会が提案された。
沖縄県は組織的戦闘が終わった6月23日を「慰霊の日」とする。島田が行方を絶ったのもこの頃だ。この時期を季語の「島守忌」として定着させようと議論は発展。名嘉山は実行委員を引き受けた。
兵庫にも呼びかけ、数多くの投句があった。机に並ぶ作品を前に、名嘉山は言い切った。
「島田さんが結んだ絆は、今も生きている」
◆
6月17日、沖縄県糸満市で島田叡らをしのぶ俳句大会が開かれた。実行委や兵庫の参加者の思いを通じ、沖縄戦を伝える姿に迫る。
=敬称略=
(津谷治英)
2018/7/3映画「島守の塔」撮影延期 新型コロナ感染拡大で2020/4/8
映画「島守の塔」沖縄で撮影開始 萩原聖人さん熱演2020/3/26
映画「島守の塔」キャスト発表 島田叡役に萩原聖人さん2020/3/17
<編集委員インタビュー>映画「島守の塔」監督 五十嵐匠さん(61)に聞く2019/11/10
20万人超犠牲、沖縄戦の実像に迫る 「島守の塔」地方紙が映画化2019/9/25
平和への思い継承、俳句に 島田元沖縄知事の追悼大会2019/7/9
県内中学 沖縄戦の教材活用広がる 神戸出身・島田叡元知事が縁2019/4/13
「島守」の縁、野球で深め 両母校が親善試合 神戸出身・島田氏と宇都宮出身・荒井氏2019/3/24
沖縄戦時の知事・島田叡氏しのぶ 元沖縄県副知事、神戸で講演2018/10/21
<島守忌が結ぶ絆>俳句で伝える沖縄戦(下)「生きろ」2018/7/6
<島守忌が結ぶ絆>俳句で伝える沖縄戦(中)平和学習2018/7/4
<島守忌が結ぶ絆>俳句で伝える沖縄戦(上)大会創設2018/7/3