戦後75年企画 沖縄戦描く映画「島守の塔」
■誰か行って死ね、とは言えぬ
地上戦が始まる前年の1944(昭和19)年10月10日。米空母の艦載機が沖縄を猛爆した。那覇市街地の90%が焼け野原になった。
「私みたいな素人でも、敵の上陸が近いと思いました。覚悟を決めましたよ」
板良敷朝基(いたらしきちょうき)(97)は那覇市の自宅で述懐した。27歳のとき、後に島田叡(あきら)知事の官房職員として仕える。島田を知る数少ない生存者の一人だ。
空襲後、泉守紀(しゅき)知事(当時)は焼け残った県庁舎を離れ、本島中部へ一時避難。板良敷ら職員は落胆した。県庁は知事不在で、空襲後の混乱収拾もままならなかった。
他府県出身者を中心に、出張を名目に沖縄を離れる官吏が出始めた。泉知事もその一人だった。44年12月に上京すると、年が明けても帰らず、他県の知事に転出した。後に疎開業務に当たる人口課長を務めた浦崎純(故人)は著書「消えた沖縄県」(65年、沖縄時事出版社)で、泉の言葉を記す。
「死ぬなら内地だ」
内地-。この言葉の根底には、今に通じる沖縄への偏見がある。「見捨てられた」。県庁内は悲壮な空気に包まれた。軍に召集される職員も増えていた。
重苦しい雰囲気を一変させたのが島田だった。45年1月31日、単身で沖縄に着任。米軍上陸が必至の沖縄への赴任は、生きて本土に戻れないことを意味していた。家族も反対し、断ろうと思えば断れたはずだが、島田は即座に受諾する。
「俺は死にたくないから誰か行って死ね、とは言えない」。語り継ぐ人によって言い回しは異なるが、よく引用される言葉だ。細身で丸眼鏡が印象的な43歳の新知事に、板良敷ら職員は感激した。
着任早々、島田は沖縄防衛を担う第32軍司令部から米軍上陸が近いことを知らされる。住民を速やかに疎開させ、疎開先で飢えさせないように食糧を調達することが、戦時行政の重要課題だった。
県や市町村の職員にこの方針を伝える島田の様子を、板良敷は覚えている。「打ち合わせを終えた地方の職員を、格上の知事が自らドアを開けて見送ったのです。『ご苦労さま』といたわるように」
板良敷は「この人は私たちと運命を共にする覚悟がおありだ」と期待を抱く。まさに、島田らには過酷な運命が待ち受けていた。=敬称略=
(津谷治英)
<島田叡知事と沖縄戦>
◆1944(昭和19)年10月10日
米機動部隊の艦載機が那覇を空襲。死傷者約1400人
12月23日
前知事、沖縄を離脱
◆1945(同20)年1月31日
島田叡知事が着任
2月
島田知事、県民の疎開、食糧確保の2本を戦時行政の柱にする。米を確保するため、自ら台湾に飛ぶ
3月後半
米軍の沖縄本島への空襲激化。県庁などは地下壕(ごう)へ
4月1日
米軍、沖縄本島に上陸
5月27日
沖縄守備の第32軍、首里から摩文仁へ撤退。住民も南部へ
6月23日(22日説も)
第32軍司令官が自決、日本軍の組織的戦闘終了
6月26日
島田知事、壕を出て行方不明に
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