第1部 はじまりの島
淡路島各地に根付く「厄年」にまつわる伝統。ねり唄が響く集落では白装束の男衆が神輿を担ぎ、深夜の祝言に厄払いを願う。

白装束をまとった男たちが、淡路市育波(いくは)の育波八幡神社本殿に並んだ。
「エイヤー」。照れくさそうに、代表の片山勝博さん(40)がなぎなたを振るう。しめ縄が真っ二つになる。それを合図に、黄金色の神輿(みこし)を肩に掛け、境内を出て御旅所(おたびしょ)へ繰り出す。
4月9日にあった春祭りの主役は、勇猛なだんじりと彼ら「厄年」の男たち。数えで41歳の前厄(まえやく)、42歳の本厄(ほんやく)、43歳の後厄(あとやく)と、春と秋に合わせて6度、祭りで神輿を担ぐ。
散財が厄を落とす。鎌倉(神奈川県)や別府(大分県)まで夫婦そろって旅行をした年もある。神社への寄進や餅まきの餅代は本厄が持つ。厄年が近づくと、同窓会が開かれ、この一大行事の打ち合わせに力が入る。
「大変やけど、厄年があったからつながれる」と片山さん。行列は山道へ入った。

農村部が「里」。漁師町は「浜」。淡路市育波(いくは)の春祭りは、異なる風土をまとう2台のだんじりが競う。
田中智博さん(28)は今年、里の青年会長になった。地元の高校を卒業し、青年会に入って10年目。「人を引っ張るタイプやないです」と首を振るが、腹をくくった。
青年会は高校卒業から前厄入りする前の男たちでつくる。30年前は40人いたが、今は18人。年2回の祭りの“実働部隊”だ。
「見るとやるとでは、全然違う。太鼓の世話、全部せなあかんので」。宵宮の後は、だんじりを見守り泊まり込む。氏子から手渡される「お花(ご祝儀)」は、誰から何をもらったかを書き留め、年長者には酒をつぐ。
浜はまだ漁師として残る若者がいるが、里は特に担ぎ手が減った。だんじりが上がらない。こうした背景から、里では30年ほど前から「罰金制」が取られている。
身内に不幸があった場合などの“遠慮”を除き、会員が宵宮、本宮を休むと、それぞれ1万円を徴収する。
「昔は休んだら5万円やった」「祭りの費用、全部持たせるいう話もあったんや」。聞けば、おっかない話も出てくる。
「何とか人を寄せたい。太鼓を上げたい。そのために始まった」。青年会OBの仙藤修一さん(59)が振り返る。青年会の衰えは、厄年行事の消滅につながる。ひと昔前から、祭りはそんな状況にある。

金色の神輿(みこし)が揺れる。
「よーっ、さっじゃー」の掛け声で進み、「どっこい、まかせ」で向きを変える。4月16日、タマネギ畑が周囲に広がる亀岡八幡宮(南あわじ市阿万(あま)上町)の春祭りでも、白装束による厄年の行事があった。
担ぎ手25人は、気ままに前進と後退を繰り返し、3キロほど南の浜へ。神事が終わり、帰ろうとしたところで突然、男たちが波打ち際に突進した。
制止する氏子を振り切って海へ入り、神輿を上下して気勢を上げる。ずぶぬれで浜辺に戻る。「どっこい、まかせ」の掛け声で、再び海へ。
実はこの動き、神事とは関係がない。前川眞澄宮司(68)は「神様を海に入れて、逆に厄が付くんちゃうか」と苦笑い。かつて、その場の乗りで海に入ったことがあり、定番化したというが、阿万地区の厄年代表、岡本孝史さん(40)は前向きに受け止める。
「『最後のやんちゃ』みたいな感じやね。同窓会感覚で、みんなわいわい楽しくやれるから、行事が続いている面もある」
厳かな風習も残る。本厄に入り半月たった1月15日前後の「棚流し」。夜、亀岡八幡宮の七つの鳥居を黙ってくぐり、玉ぐしを乗せた4尺7寸3分の木の船を沖に流す。
船の長さは「死なさん」の語呂合わせ。厄を流して帰宅した男たちを、家族がこう言って出迎える。
「2か2かと思っていましたが、3になっていましたか。おめでとうございます」
元日に迎えた本厄を儀式ではらい、無事に43歳になりましたね、という意味だ。近年はこの祝言が消えかかっているようだが、そっくりな言い回しを守る地域がある。
漁師町の洲本市由良。本厄を迎えた男たちが、毎年1月23日未明に「二十三夜待(にじゅうさんやまち)」を執り行う。
由良湊神社で神事を終え、草履に履き替え家路に就く。橋のたもとで草履を脱ぎ、餅、お金と箱に収めて厄を置き去りにする。
自宅では、タイの尾頭に、おせち料理、おとそが待つ。戻ってきた男たちは、子どもにお年玉を配り、改めて「新年」を祝う。その際に掛けられるのが、「2か2かと思わっしゃれば、3にならしゃっておめでとうございます」の言葉。
土地柄が違う、二つの町に似た祝言が伝わる。厄年が暮らしに根付いてきた証しだ。

さればなァ~え~え~ これから ヨイヨイ 氏神様(うじがみさま)よ ああそうにせ ええやにせ やれ里の御神燈(ごしんとう) えええ それさそおう 奉る
育波の春祭りで、里や浜など5地区の代表が御旅所(おたびしょ)で「ねり唄」をささげた。春は豊作や豊漁を願い、秋は実りへの感謝を。どこか物悲しい旋律に、桜の花びらが重なる。
歌が終わり、厄年の男たちは再び神輿を手にした。境内へ戻り、2台のだんじりとの競演が始まる。
里のだんじりは上がっては沈む。誰かが叫んだ。「太鼓に上がれ」。青年会長の田中さんが遠慮がちに、担ぎ棒に上る。「ほら、ひーの、ふーの」。最初は小さかった声が、次第に大きくなる。「おーしゃーしゃーの、しゃーんと来い」
厄年による餅まきで、祭りは終わる。お花をくれた人の家や店を回り、ねり唄をささげる。青年会の務めは、日が暮れても続いた。(記事・上田勇紀、小川晶 撮影・大山伸一郎、大森武)

災難が起こりやすい年齢とされ、神社本庁(東京)は「平安時代から厄年の考え方はあったのではないか」とみる。地域によって異なるが、いずれも数えで男性は25、42、61歳、女性は19、33、37歳-などが一般的だ。中でも、男性の42歳と女性の33歳は「死に」「さんざん」との響きに掛けて大厄とされ、現在も各地で厄払いの催しや祈願が行われる。