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第1部 はじまりの島

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 紀淡海峡に臨む天然の良港、由良(洲本市)。数え3歳の幼子を抱いて練り歩く祭りには、漁師町が育んだきっぷの良さが凝縮されている。

【動画】のっぺ汁

 由良湊神社の春季例大祭「ねり子祭り」の本宮が終わると神輿を先導した総代らが宮司の家に集い料理を囲む。「のっぺ汁」にはニンジン、キヌサヤ、サトイモ、鶏肉などの具材が入る。

【2】ねり子祭り 親族総出、祝うハレの日
昔は「ねり子」を抱いて大人が駆け抜けた参道を、今は着飾った親族と練り歩く=洲本市由良(撮影・大山伸一郎)
昔は「ねり子」を抱いて大人が駆け抜けた参道を、今は着飾った親族と練り歩く=洲本市由良(撮影・大山伸一郎)

 まだ冷たい潮風に、「ねり子」のまとう晴れ着の裾が揺れる。

 数え年3歳。額と頬に朱色で十字を描かれた子どもたちが親の腕に抱かれ、海の方角へと坂を下る。かつては走ったが、今は歩く。付き添う十数人の親族も和装や洋装で着飾って。

 漁師町で知られる由良(洲本市)。由良湊神社の春季例大祭「ねり子祭り」本宮の2月11日、境内からお旅所までの約700メートルは、氏子入りした子どもをお披露目するにぎやかな道中となる。後ろには、厄年の男性が担ぐ神輿(みこし)と7地区のだんじりが続く。

 「おめでとうさん」「かわいいわ」。路地から住民の声。「サージャー」「ヤーショ」。地区ごとに異なる掛け声、太鼓も響く。

 今年は3組、親族は総勢約50人が参加した。300組が練り歩いたかつてに比べれば寂しい。それでも、由良が最も華やぐ一日だ。

素朴な味の「のっぺ汁」
祭りの後には、素朴な「のっぺ汁」を味わう=洲本市由良
祭りの後には、素朴な「のっぺ汁」を味わう=洲本市由良

 おわんの中から、湯気が立ち上る。とろみのある汁の中にニンジン、キヌサヤ、サトイモ、鶏肉など色とりどりの具材。「のっぺ汁」の味は素朴だ。

 由良湊神社(洲本市由良3)の春季例大祭「ねり子祭り」の本宮が終わった。神輿(みこし)を先導した総代ら十数人が宮司の家に集い、料理を囲みながら、一息ついた。

 「今年のねり子は去年より少なかったな」「まぁ、無事に済んでよかったで」

 ねり子の呼び名は、神輿とともに「練り歩く」から、あるいは子どもを「練り鍛える」から付いたともいわれる。数え年で3歳になる幼子の氏子入りを祝うとともに、健やかな成長を願う、江戸時代から続く祭りだ。

 「来年はどうかの」。主役の子どもをよそに、大人たちはしごく満足顔だった。

口紅で描く十字の印
額と左右の頬に、口紅で十字を描かれたねり子=洲本市由良
額と左右の頬に、口紅で十字を描かれたねり子=洲本市由良

 本宮の朝。神社から歩いてすぐの「トキ美容室」に、4人の女性が集まっていた。「ハレの日」の盛装に、順に仕上げられていく。

 近くに住む伊富貴(いぶき)江利さん(65)と次女の亜矢さん(37)。長女の前田沙智さん(39)は尼崎から来た。大阪に住む次男大志さん(33)の妻智子さん(35)も、あでやかな和装に変身を遂げつつある。

 「ほら、きれいだ? ねり子祭りは一番ちゃんとせなあかん日や」

 美容師の井内好子さん(75)が、江利さんの髪にかんざしを挿す。この地に美容室を構えて半世紀以上。壁には、着飾ったわが子を抱えて全力疾走する父親の写真がある。

 「ちょっと前までは100組ぐらい来てたんやで。赤ちゃん抱えて競走してたんや」

 ねり子を抱いた親族一行は、宵宮で授かった神のよりしろ「御幣(ごへい)」を手に、神殿の周囲を右回りに3度回ってから、約700メートル離れたお旅所の事代主(ことしろぬし)神社までを練り歩く。そこで御幣を納め、神主がねり子の頭の上で鈴を振って祝福する。

 戦後、お旅所への一番乗りを目指し、ねり子を担いで走る人が現れた。全力で駆ける男の肩に幼子がしがみつき、泣き叫ぶ。走り手が力尽きれば、次の走者に幼子を渡す。子どもが多かったころ、担いで一斉に走りだすさまは壮観だった。沿道を埋めた見物人を大いに楽しませた「ねり子リレー」の慣習は2000年まで続いたが、転倒する人も相次いで危ないこともあり、歩くようになった。

 ねり子である悠人(ゆうと)ちゃん(1)の母智子さんが、薄いピンク色の晴れ着姿で現れた。夫の大志さんに抱かれた幼子の顔に、「特別な存在」の印である十字が口紅で描かれた。

 「じゃ、行こか」。親族総勢11人が神社へ向かった。

対岸・和歌山はすぐ近く
以前は由良湊神社からお旅所まで一番乗りを目指し、子どもを担いで全力で走った=1979年2月15日(伊富貴江利さん提供)、洲本市由良
以前は由良湊神社からお旅所まで一番乗りを目指し、子どもを担いで全力で走った=1979年2月15日(伊富貴江利さん提供)、洲本市由良

 紀淡海峡に臨む天然の良港・由良。旧陸軍「由良要塞(ようさい)」跡の生石(おいし)公園に上る。対岸の和歌山・友ケ島は手が届きそうなほど近い。

 約20年前まで、大阪南部・岬町の深日(ふけ)港を結ぶ定期航路があった。由良の人にとって、大阪や和歌山が都会だった。魚や釣り具の部品などを船で運び、大阪で売った。出稼ぎや往来も盛んで、今でも由良には「和歌山に親戚がおる」と話す人は少なくない。

 井内さんも中学を出て、和歌山の美容室に住み込みで働いた。由良から深日までは高速艇で30分。寂しくはなかった。20代で故郷へ戻り、美容室を開いた。祭りの2日間は一番の稼ぎ時。20組も30組も予約があった。

 1985年には6千人近くいた由良の人口は、今は約3300人。蚕の絹糸腺(けんしせん)から作る釣り糸「磨きテグス」は昭和初期の一大産業で、女性従業員が800人いた。戦後、ナイロンに取って代わられたが、その技術を顕彰する石碑が今も海を向いて立つ。

新妻を祭りで披露
ねり子の晴れ着は昔、ほどいて大人用に仕立て直せるように縫われていた。前田沙智さんは、38年前に着た晴れ着で今年の祭りに臨んだ=1979年(左、伊富貴江利さん提供)、2017年(右)
ねり子の晴れ着は昔、ほどいて大人用に仕立て直せるように縫われていた。前田沙智さんは、38年前に着た晴れ着で今年の祭りに臨んだ=1979年(左、伊富貴江利さん提供)、2017年(右)

 旅館の座敷で数十人が飲食を楽しむ写真がある。それぞれの手元には、果物をたっぷり盛った大籠が置かれている。

 「引き出物ですわ。本宮の後の宴会は披露宴みたいなもんやから」。伊富貴江利さんが約40年前のアルバムを繰りながら笑う。

 婚礼行事のない時代、祭りが新妻のお披露目を兼ねた。親族もそろって着物を新調し、1着に100万円以上かけることもあった。家族はねり子が終わると親族や友人、ご近所さんらを招き、夜中までもてなした。

 何年もためてきた金を一夜のうちに使い果たす。派手な散財は、「板子(いたご)一枚下は地獄」という漁師特有の人生観ゆえとも、他に娯楽がなかったからとも。今は貸衣装の家族も多く、宴会は外食に形を変えた。お旅所までの路地は空き家が目立つ。それでも、祭りはすたれていない。大志さんは大学進学を機に島を離れたが、当たり前のように帰ってきた。

 昨年、関西空港と洲本を結ぶ定期航路の復活へ、試験運航があった。訪日外国人観光客を島に呼び込もう。そんな期待が、井内さんの耳にも聞こえてくる。

 「由良にも来てくれたらいいねぇ」。そのときは、きっぷがいい男と女が守り継いできたこの町の祭りを見てほしい。(記事・金慶順、写真・大山伸一郎)

【お旅所】
神戸新聞NEXT
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 神社の祭礼で、ご神体やよりしろを乗せた神輿(みこし)などが氏子地域を進む「渡御(とぎょ)」の際に立ち寄る場所。または渡御の目的地。神様の休憩所や宿泊所との意味合いがある。氏子にとって重要な場所がお旅所になっていることが多く、地域内の別の神社や山、海、河川敷である場合もある。神輿がお旅所に到着すると、神事を執り行う。

 

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