第1部 はじまりの島
夜明けを迎えた淡路島で、男たちが深々とこうべを垂れる。洲本市小路谷で五穀豊穣を願うため、細々と、しかし脈々と受け継がれてきた「お日待ち」神事だ。

早朝の海に、宮司の吹くひちりきとニワトリの声が響く。あいにくの曇り空だが、雲の奥に朝日の気配を感じ取る。14人の男たちが海に向かって、こうべを垂れた。
「丹精した稲が無事に育ちますように」
太陽を待つから「お日待(ひま)ち」。五穀豊穣(ほうじょう)などを願う神事は播磨や但馬の山間部でも見られるが、淡路島東海岸の洲本市小路谷(おろだに)では、海辺で日の出を迎える。
海にせり出した地に立つ住吉神社。東の空が白み始めるころから祭壇を設け、神事は午前5時に始まる。
今年も田植えを終えることができた。祈りをささげる男たちの背中から、そんな安堵(あんど)感も伝わってくる。
淡路島各地に残る農耕にまつわる風習や神事。一方で、途絶えてしまったものも少なくない。
さりげなく伝わっているようでいて、長く続くには理由がある。その「わけ」とは…。

淡路島北部には、今も「女人禁制」の風習を守り続ける神社がある。
記者は女性だが、門前払いに遭わないだろうか。やや緊張しながら、淡路市舟木の石上(いわがみ)神社へと車を走らせた。
標高約160メートル。うっそうと木々が茂り、霊妙な雰囲気だ。境内入り口、鳥居のそばに「女人禁制」と赤く刻まれた岩がある。脇には「女性の方 参拝こちら」の案内板。それに従い、小道を進むと稲荷社がある。鎖の向こうに、重さ約20トンという巨石の御神体が鎮座していた。
同神社の春季例祭は、農繁期を控え、豊作を祈願する。毎年3月9日にあり、約10人の男性が集まった。現在、二十数世帯の舟木集落はほとんどが農家。神職が御神体の前に膝をつき、祝詞を唱えた。
石上神社は、伊勢(三重県)から三輪山(奈良県)を経て淡路島に至る北緯34度32分の緯度線上に位置する。「太陽の道」と呼ばれるこの東西軸には、日の神信仰にまつわる著名な遺跡や寺社がほぼ一直線に並ぶ。
これらの地には、「日を迎える座(朝日に向かって祭事をする)」と「日を追う座(夕日に向かって祭事をする)」がある。前者は男性が、後者は女性がつかさどる。石上神社は前者で、それが女人禁制の由来という。
「最近は、観光バスに乗って、若い女性グループも来ますよ」
前町内会長の赤松武志さん(67)によると、女性用参拝路は昔からあったが、数年前に歩きやすいように町内会費で舗装した。「なんで女性は入れない?」。問われることもあるが、風習は今なお固く守られている。
秋季例祭で、五穀豊穣(ほうじょう)を感謝する神事「座り相撲」も長く受け継がれてきた。氏子が東西に分かれ、膝を立てた姿勢で組み合う。東が勝てば「万作」、西なら「豊年」。必ず引き分けるので豊年万作。さぞ由緒が、と思いきや、神職の森本明さん(66)はさらりと言う。
「昔は立ってたんとちゃいますか。けがをせんよう、座り相撲になったんやろう」

舟木と同じ淡路市の山間部、久野々(くのの)集落では、田植えが終わった後に行われる風習が伝わる。「廻(まわ)りご祈禱(きとう)」という。
毎年7月11日朝、集落の全世帯から男性が1人ずつ集まる。白っぽい服装でTシャツでも構わない。2班に分かれ、ほら貝をブォーと吹き、鈴をチリンと鳴らしながら、あぜ道を巡る。1軒ずつ全ての家に上がって読経し、酒とごちそうでもてなされる。
日が暮れても「ご祈禱」は続いた。「全部の家で飲んで、食って…。最後は酔っぱらってあぜ道で眠りこけてた」。上田愛直(よしなお)さん(74)が、十数年前を振り返る。
だが、久野々も二十数世帯に減り、もてなしは簡素になった。女性は祈禱の列には加わらず、家で迎えるのみだが、高齢女性の独居世帯も多い。
「数年後には消えてるんちゃうかなぁ」と上田さん。多くの観光客を集めた「かかし祭り」も、過疎化と高齢化で準備が難しくなり、2年前に幕を閉じた。毎年執り行われるご祈禱も継続が危ぶまれる。
「やめたら罰が当たるかもしらんし、ずっと続けてきたもんやしなぁ」。そう話す上田さんの隣で、妻の富子さん(73)が笑う。
「田植えの後、家中を掃除するいいきっかけになるから、続けたらいいんですよ」
集落の棚田はもう水をたたえている。今年も、ご祈禱の日が近づいている。

昔の田植えは、人の手で一株ずつ植えていく数を頼みの作業。地域で結いを組み、互いの家族が協力し合った。田植えが終わると打ち上げをして、労をねぎらった。
洲本市小路谷(おろだに)の「お日待ち」もそう。住吉神社に集まり、夕刻に神事を行い、酒食を楽しみながら、翌朝の日の出まで一緒に過ごした。今は簡素化され、夜にいったん解散し、早朝に再び集まる。集落で農業を営むのは22世帯だが、その大半が兼業だ。お日待ちの参加者も以前より減っている。
神社の立つ古茂江(こもえ)海岸は、摂州、泉州、紀州、播州を見渡せる景勝地だったことから「四州」と呼ばれ、元々は太陽を見る場所。古代から何らかの信仰の地だったのだろう。
「そんな場所で行事を絶やすわけにはいかんでしょ」と氏子総代の谷克明(よしあき)さん(69)。谷さん自身も兼業農家だが、「収入やのうて代々の土地を守るため」に農業を続ける。
雨をたっぷりいただいて、青々とした田んぼが広がっている。夏はすぐそこに。時は移れど、太陽を「お日さま」と呼び、敬う心は忘れずにいたい。(記事・金慶順、写真・大山伸一郎)

淡路島各地では昭和期まで、家族や集落単位で田植えの前後に執り行うさまざまな神事があった。田植えを始める前、あぜにお神酒や木の枝をまつる「サイキ」「サビラキ」。田植えが終わった後、餅を神棚に供えたり、近所に配ったりする「サノボリ」。「サ」は稲の神を表し、里に下りてきた神様が、田植えが終わると山に帰っていくという信仰に基づく。