茶色い格子柄の財布から、一枚のレシートが出てきた。
刻印された日時は一九八五年八月十二日、午後四時三十二分。場所は羽田空港。その約二時間半後、財布の持ち主だった工藤由美さん=当時(24)=が乗った日航機は、群馬県上野村の御巣鷹山中に墜落した。
遺品は、神戸市東灘区本山中町に住む由美さんの両親、北村喜由さん(72)、美江子さん(68)が大切に保存してきた。神戸から埼玉県に嫁いで半年後の事故。初めての里帰りで、一人で搭乗した。財布と、美江子さんが手作りしたティッシュケースが、黄色いポシェットに収められていた。
北村さんの自宅は、阪神・淡路大震災で全壊した。解体のとき、ポシェットをしまっていた神棚の周辺は、特別丁寧に作業をしてもらった。事故から今年で二十年。肩ひもがちぎれ、底が破れたポシェットは震災を越え、あの夏の日の出来事を伝える。
「由美ちゃんは、何を買ったんでしょうね」
二十年たって初めてレシートを見た美江子さんの目が潤んだ。千二百円のものを三個、計三千六百円。「お土産でしょうか」。ポシェットから、白い砂がぱらぱらとこぼれ落ちた。
この記事を書いている私たちは、日航機事故の現場を知らない。当時を知る記者も年々、少なくなっていく。
しかし、青い印字がはっきりと残るレシートを手にしたとき、一人の女性の鮮やかな生が、二十年の時を越えて迫ってきた。
何より、今も変わらない両親の思いを知った。事故の半年前、ハワイでの結婚式に旅立つとき、伊丹空港で撮った由美さんの写真があった。「これが最後に見た娘。忘れられません」。母はじっと見入った。
北村さんのことを聞いたのは、震災まで同じ町内に住んでいた土本晴子さん(71)からだった。
土本さんは、震災で長女の麻紀さん=当時(26)=を失った。「今になって奥さんの気持ちがよく分かる」。震災後、美江子さんにそう話した。
北村さんが自宅跡に再建したマンションの近くに、麻紀さんの名が刻まれた震災の慰霊碑がある。土本さん夫婦は毎月十七日前後、転居先の加古川市から訪れる。美江子さんも毎日の散歩のたび、手を合わせるという。
その碑の前に立つとき、亡き娘と生きる二つの家族を思う。
「あなたに話して、何かが変わりますか」
震災後の取材で、何度も同じ疑問を投げかけられた。新潟県中越地震の被災地でも、同じ言葉を聞いた。確かに、記者に話して亡き人が戻るわけでも、家を再建できるわけでもない。
それでも、話してくれる人々がいた。感謝したい。人の命がどれほど重いのか。平凡な暮らしを奪われることがどれほどつらいことなのか。それは、失った人の言葉でなければ伝わらない。メディア自身の力ではできない。
命を守る第一歩は、その一言一言を受け止めることから始まる。大きな災害や事故だけでなく、身の回りで失われる命の一つひとつ。その叫びに、耳を傾けたい。六千四百三十三人の死が刻まれた地で生きる私たちには、できるはずだと思う。
「話を聞いていただき、供養になりました」。日航機事故で娘を失った美江子さんが、別れ際に言った。その言葉にたどり着くまでの二十年という歳月を思い、胸が詰まった。
復興。それは死者とともに生き、彼らが残したものを理解していく長い道のり。戦後六十年、この国があの戦争を問い続けているように。身近な人の死の意味を、誰もが胸の奥で考え続けているように。
一月十七日が巡る。防災の原点。復興の原点。私たちは死を忘れない。
(社会部・磯辺康子、勝沼直子、浅野広明)
=おわり=
2005/1/16