マイホーム。家族の汗の結晶ともいえるその城を、阪神・淡路大震災はことごとく奪った。
「欠陥住宅ですよ」。神戸市東灘区の内装業鎌倉利行さん(65)は、解体業者に言われた一言が忘れられない。
震災の三年前に初めて建てた一軒家が全壊した。基礎と柱をつなぐ金具が一つも見当たらないといわれた。しかし、混乱の中、倒壊の原因を突き止められないまま、住宅は解体された。
多額のローンだけが残った。さらにローンを組み、もう一度家を建てたが、不景気もあって商売は思うようにいかない。体調も崩しがちになった。生活をぎりぎりまで切り詰めているが、二重ローンは払えそうにない。
「自己破産しかないか」。あきらめ顔で言った。
私たちは震災後、多くの建築関係者や学者に会った。取材を進めれば進めるほど、戦後の住宅史のいびつさを感じた。
戦災で、日本では全世帯の三分の一に当たる住宅が不足した。政府は、住宅の大量供給を進め、住宅ローン制度を整備した。不足は約二十年で解消した。戦時中、一割だった神戸の持ち家率は、今や六割にまで達している。
一方で、住宅業界は建設と解体を繰り返し、利益を追い求めた。日本ほど住宅の寿命が短い国もない。国土交通省の統計によると、平均わずか三十年。古くなったといっては壊し、再開発といっては壊した。
バブル期には、住宅は投機の対象にもなった。多くの人が、資産としての価値が高まることを期待した。
マンションデベロッパーの元社員は「売ることが目的だった。売り逃げといわれても仕方ない」と漏らした。欠陥を防ぐチェック機能は働いていなかった。「手抜き工事はいくらでもできる」と、ある建設業者が明かした。
住宅の安全性が置き去りにされてきたのではないか。阪神・淡路は、日本の住宅政策が抱えるひずみを一気に表面化させたのではないか。この十年、私たちが常に抱き続けた疑問だった。
震災後の街を見て、住田昌二・大阪市立大学名誉教授(住宅政策)は言う。「戦後の大量供給時代から進化していない。次世代に残したい住宅はほとんど生まれなかった」
高層の公営住宅が立ち並び、コミュニティーは分断された。機能や効率を追求した結果、「安心」は遠ざかったようにも見える。
西宮市大井手町に住む建築家中北幸さん(52)の自宅を訪ねた。
ツタが壁をはい、草木が屋上を彩る。大きな窓からは明るい光。雨水をため、トイレや庭の散水などに使えるようにしている。家のあらゆる場所に、「自然」の営みが息づいていた。
一人娘の百合さん=当時(14)=が、全壊した自宅で亡くなった。震災後は仮設住宅で暮らした。仕事中心の生活から一転、家族で寄り添う日々だった。手狭な空間だったが、鳥の声で目覚め、土のにおいがした。住まいの原点のようなものを感じた。
「子どもを失う悲しみは、とても言葉では言い表せない」と中北さん。建築家として、丈夫な家を造ることができなかった悔いがある。「自然をおろそかにした付けが回ってきた」
震災の年、長年勤めた安藤忠雄建築研究所から独立した。自然の恵みを利用した設計を心掛けることにした。地震という自然の猛威にも耐えられる安全性にもこだわった。
都心に林立する高層マンションには、批判的な目を向ける。「大量のエネルギーを消費し、大量の熱を発する。自然を犠牲にして人間の快適さをつくり出している」と。
住宅は人の思想を映す。生き方を映し出す。震災からの学びが私たちの暮らしに根付いているか、と自戒する。
2005/1/5