連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

(13)次世代 純化される祈り伝えて
  • 印刷

 「六千四百三十三人。震災で、人丸小学校の七倍の人が亡くなった」

 六年生の言葉が体育館に響いた。

 「愛し、愛された人が亡くなった」

 別の児童が声を張り上げた。下級生たちは静かに聞いている。六年生が声を合わせた。「亡くなった人の分まで、しっかり生きていこうと思った」

 十四日、兵庫県明石市の人丸小学校で開かれた全校集会。一学期に広島の原爆を、二学期に阪神・淡路大震災を学んできた六年生が、下級生に「命」について伝えようと企画した。

 震災を知るため、子どもたちは両親や身近な人らに取材してきた。看護師、飲食店経営者、震災の語り部…。小嶺ゆり恵さん(12)は、震災の取材を続ける記者の話が聞きたいと提案した。

 昨年末、私たちは教室で子どもたちの質問を受けた。

 「震災を取材して、自分の中で変わったことはありますか」

 震災の時、京都で大学生活を送っていた記者が思いを語った。ボランティア活動など、被災者のために何一つしなかったこと。後ろめたい気持ちがあったこと。「だから今、少しでも被災者のためになる記事を」と話した。

 最後の質問で、小嶺さんが聞いた。

 「希望とは何ですか」

 同じ記者はしばらく考えた後、取材で知った人々のことを伝えた。震災で家族を失った後、自ら命を絶った人がいた。誰にもみとられず、復興住宅で亡くなった人もいた。そして自分の家族を思い浮かべながら、こう答えた。

 「希望は、自分以外の人たちがいて初めて生まれるのだと思う」。答えになったかは分からなかった。

 神戸市の須佐野中学校は毎年、保護者に震災のアンケートをしている。回答には、生徒に残る深い心の傷がのぞく。今でも体験が突然よみがえる「フラッシュバック」を起こす生徒がいる。「震災のことを学ばせないで」という保護者もいる。

 山下涼教諭は「保護者自身が、経済的、心理的な問題を抱えるケースも多い。そうした家庭環境が子どもに影響を与えていると感じる」という。

 一方、小学校では二年後、震災を直接体験した子どもがいなくなる。児童八人が亡くなった芦屋市の精道小学校の渡辺享子教諭は「教育現場で、震災を伝える重要性はさらに増すだろう」と話す。

 今年、日本に原爆が投下されてから六十年になる。広島では被爆者の高齢化が進み、「伝える」ことの難しさがより切実になっているという。

 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市)は、被爆者一人ひとりの生きた証しを伝えるため、被爆の体験記や死没者の遺影を集めている。最近の十年間だけで、寄せられた体験記は十万件、遺影は一万枚にも上った。

 同様の試みを続ける阪神・淡路大震災記念協会には、その1%も集まっていない。そうした呼び掛けに応えるには、十年という歳月は短すぎるのかもしれない。

 平和祈念館の前田耕一郎館長は、被爆体験記についてこう語る。「一様に『二度と原爆を使わないで』『平和であって』というメッセージで締めくくられている。『敵が憎い』『人間を帰せ』は言われなくなった」

 時が祈りを純化させる。震災は、どう伝えられてゆくだろうか。

 「私たちの助け合いは、今スタートした」。人丸小の六年生は、メッセージをこう締めくくった。班やクラス、学年で話し合った結果だった。

 「震災を学んでよかった。両親が私を必死で抱き締めてくれたと知ってうれしかった」と斎明寺唯衣さん(12)。地震の夢を時々見るという月城あかねさん(12)は「怖がるだけでなく人を助けられるようになりたい」と話した。

 私たちにとって、震災の取材は「死」と「生」に向き合う作業でもある。子どもたちも身近な人々にとっての「震災」を知り、命の意味を学んだ。

2005/1/15

 

天気(9月6日)

  • 34℃
  • ---℃
  • 0%

  • 35℃
  • ---℃
  • 0%

  • 35℃
  • ---℃
  • 0%

  • 37℃
  • ---℃
  • 0%

お知らせ