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(7)元年 「生身」の感覚忘れずに
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 「君は神戸に行ったか」

 阪神・淡路大震災の直後、雑誌の見出しにはそんな言葉が躍っていた。

 被災地で多くのボランティアに出会った。ほとんどの人が「活動は初めて」と話した。最初の一年だけで、延べ百三十万人以上が活動したとされる。

 今、神戸市兵庫区の非政府組織(NGO)「被災地NGO恊働センター」で働く鈴木隆太さん(29)も、その一人だった。出身は名古屋市。当時は浪人生。避難所になっていた神戸市灘区の小学校で三月半ばから活動を始めた。まだ千人を超える避難者がいた。

 新学期を前に、若いボランティアの数は減り始めていた。一部の人間が口にする“撤退理由”に違和感があった。いわく「被災者は自立すべきだ」。外部の人間が言うべきことではないと感じた。最後の避難者が学校を出るまで活動を続けよう、と心に決めた。

 この十年、鈴木さんがNGOスタッフとして現地入りした被災地は、国内外で十カ所を超える。日本でも、災害時のボランティア活動は当たり前の光景になった。社会福祉協議会などが受付窓口を開く。復興に欠かせない存在として、認知されるようにもなった。

 「ボランティア元年」がもたらした変化だった。

 ボランティアバブル。震災後の十年は、そう呼ばれることもある。

 被災地では、ボランティア活動に大量の資金が流れ込んだ。中でも巨額だったのが、モーターボート特別競走の収益金の一部を活用した「阪神・淡路コミュニティ基金」。曽野綾子・日本財団会長らを発起人に、震災翌年、設立された。八億円を三年間で使い切ることが当初から決められた。

 基金の代表を務めた今田忠・市民社会研究所長は「三年で使い切るのは難しいと思った」と話す。ばらまきでなく、将来、社会の変革を担うような団体に資金を出したかった。が、被災地には、そこまでの力を持つ団体はほとんど育っていなかった。

 三年間の助成・協賛金提供先は、数万円から数千万円まで約二百件。すでに消えた団体もあるが、基金の助成で基盤を整え、その後、被災地の復興を支えてきた団体は少なくない。

 十年を期限とする「阪神・淡路大震災復興基金」も、被災地のボランティア活動には大きな後ろ盾だった。二〇〇三年度までの助成額は約十五億円。その助成も、今年三月で終わる。

 「バブル後」をどうするか。被災地の団体は、正念場を迎えている。

 日本経済が失速した一九九〇年代。「失われた十年」といわれるが、今田さんはその時期を日本のボランタリズムの覚醒期(かくせいき)と位置付ける。「中央集権的な官僚支配が続いたその前の五十年こそ、『失われた五十年』ではないか」

 九八年には特定非営利活動促進法(NPO法)が成立した。NPO法人数は現在、全国で二万近くにのぼり、確実に公益の一部を担い始めている。

 こうした中、東京都は〇七年度にも、全都立高校で「奉仕活動」を必修科目とする方針を打ち出した。「ボランティアの義務化」に懸念が広がる。

 多くの被災地で活動する鈴木さんも最近、疑問を感じている。例えば、震災後盛んにいわれる「ボランティアのコーディネート」。活動をスムーズに進めることにこだわり、技術論にしか興味を持たない人をよく見る。

 「『自分が被災者なら』という感覚がないのが気になる。大事なのは、ボランティアという枠を超え、人間としてどれだけ相手に近づけるか」

 「神戸に来た人々」の多くが、そんな生身の感覚をつかんで帰ったはずだ。その原点を見つめる日々が続く。

 鈴木さんは三年前、結婚相手の実家の寺で得度した。昨年は地域の消防団員になった。将来は僧侶として人と向き合っていきたい、と考えている。

2005/1/9
 

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