20年間の気持ちや生活の変化をグラフで表すと、どんな形になりますか-。神戸新聞社は昨秋、阪神・淡路大震災の遺族を対象にアンケートを行った。上向きになった人。ずっと低いままの人。「書けなかった」人-。それぞれの〈心のグラフ〉の向こうに、生き抜いてきた時間が浮かび上がる。愛する人を失ったあの日から、いくつもの朝を迎えながら。
真新しい部屋には、越してきたばかりの空気が漂っていた。
宝塚市の佐々木静枝(33)は昨年10月、夫の裕(ゆたか)(32)の仕事で3年間滞在したドイツから帰ってきた。
「荷ほどきが最近ようやく一段落して」。笑う静枝の胸には、ぷくぷく太った次男の舟人(しゅうと)(1)。そばでは長男の勇人(ゆうと)(4)が、裕とブロック遊びに興じる。
穏やかな風景。だが、ここにたどり着くまでには、暗く長い道を独りで歩き続けねばならなかった。
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気がつくと、生き埋めになっていた。
1995年1月17日。阪急岡本駅にほど近い神戸市東灘区の自宅は全壊した。4人きょうだいの末っ子の静枝を「しーちゃん」と呼び、誰よりもかわいがってくれた一番上の兄、牟田口(むたぐち)武男=当時(22)=が帰らぬ人となった。
「武男だけ返事せえへん」
外で、母(64)が泣き叫んでいた。中学1年の静枝は、家の下敷きになったまま、その声を聞き続けた。
前の日はなんでもない休日だった。
「しーちゃん、一緒にCD屋行く?」
バタバタと大きな足音を立てて走る武男を、近所の店までふざけて追い掛けた。
何か買ってあげるよ、と促す兄に、「朝ドラのあの曲がいい」と言った。人気バンド「ドリームズ・カム・トゥルー」の「晴れたらいいね」が収録されたCD。初めて手にした自分のCDがうれしくて何度も聴いた。
一家は震災後すぐ、神戸市北区に移り住んだ。周囲に被害はほとんどない。余震のたびに、びくっとなる静枝。でも、同級生たちは「おー、揺れた揺れた」と、楽しいイベントのように騒ぎ立てた。
静枝を気に掛ける担任には、どう話せばいいか分からず「大丈夫です」とだけ答えた。いつしか気遣われることもなくなった。
母は、全ての気力が抜け落ちたかのようだった。「外に出掛けよう」と誘っても、「お母さんはいいわ」。健康だった父(71)は、たびたび倒れるようになった。
親に心配を掛けるわけにはいかない。「いい子」の静枝は感情を小さな体にのみ込み、甘えることを禁じた。
家族は、兄の話を避けていた。「震災のことを話したい」と思えるようになったとき、吐き出せる相手はどこにもいなかった。
中学はバレー部、高校はバスケット部のマネジャー。友人が笑い転げる。合わせて自分も笑う。そうか、みんな楽しいんだ。うらやましいな。
〈心のグラフ〉はずっと底をはっていた。
=敬称略=
(黒川裕生)
2015/1/1