とうとう独りになった。
阪神・淡路大震災で一人娘の多永(たえ)子=当時(32)=を失った三川三代(みかわさよ)子(78)=神戸市兵庫区。2013年8月31日、夫の範彦が86歳で亡くなった。娘の面影をしのびながら。
三代子はプレハブに住んでいる。全壊した自宅跡に、夫と仮住まいのつもりで建てた。むき出しの鉄骨にベニヤ板を張り巡らし、壁と天井には断熱材を入れた。結局ここが、ついのすみかになりそうだ。
「狭いけど、慣れれば暮らしやすい。食べて寝るだけならこれで十分」
三代子は淡々と毎日を生きる。それが20年で身に付けた作法だ。
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親子3人、同じ家に寝ていたのに、多永子だけが棟木の下敷きになってしまった。
仮設住宅は何度申し込んでも当たらず、2人はなじみの寺や範彦の姉の家に世話になった。
しびれを切らし、プレハブ住宅に住み始めたのは1995年夏ごろ。当面の安心感が、〈心のグラフ〉にも表れている。
範彦は多永子の思い出を新聞にたびたび投稿し、詩にもつづった。一緒に銭湯に行った幼いころの話、卓球に打ち込んだ学生時代の様子…。
〈高校は県立 大学は公立に入って奨学金で/何一つ世話をかけなかった〉。自慢の娘だった。
大学卒業後は大阪の会社に勤めた。年ごろなのに〈化粧も殆(ほとんど)せずイヤリングもしたことがない〉。そうだったね、あの子は。三代子が読み、感想を語る。
遺影にしている写真を撮った三田市の花しょうぶ園には、毎シーズン訪れた。多永子が立っていた場所を探し、しばらくたたずんだ。
夫婦で娘をそっと抱きしめるような日々。三代子は、そのうち多永子が「ただいま」とひょっこり帰ってくるような気さえしていた。
でも、そんな感覚もいつしか薄らいでいく。忘れたわけではない。でも寂しくもない。十七回忌も終えた。あっという間だった。いや、ずいぶん長かったような気もする。
グラフは、2003年ごろからなだらかな下降線をたどる。範彦の体調が芳しくなかったからだ。長年患ったぜんそくで体力は衰え、闘病の末、逝った。家で多永子の話をする相手はいなくなった。
三代子も傘寿が近い。最近、膝が痛む。目も歯も悪くなる一方だ。
それでも欠かさず続けていることがある。範彦に紹介されて震災後に始めた卓球。多永子を意識したわけではないが、「教えてもらっておけばよかったな」と思う。今も週3、4日は汗を流す。
昨年7月、プレハブの屋根のペンキを塗り直した。この家もまだ住める。
生きていこう。夫と娘と3人で暮らしたこの場所で。しんどいけれど、また、新しい朝を迎えよう。
=敬称略=
(黒川裕生)
=おわり=
2015/1/12