「悲しいョゥ~」「お父さん お父さん」
栗山綾子(80)=神戸市兵庫区=の手元に、青い表紙の古ぼけた1冊のノートがある。
阪神・淡路大震災が発生した日の夜からつけ始めた日記帳。自宅で圧死した夫の昭三=当時(66)=への思いがあふれている。
激しい揺れに、兵庫区三川口町の古い木造アパートはひとたまりもなかった。昭三は1回、「う~ん…」と弱々しくうなったきり、事切れた。2匹いたポメラニアンも、1匹は昭三と逝った。
生き残った「リュウ」と綾子は、神戸市西区や姫路、西宮、大阪、そしてまた兵庫区と、友人や親戚を頼って住まいを転々とした。「まだ、家が見つからない」。6月1日の日記だ。建設現場で働く男たちの食事作りの仕事を紹介され、プレハブに寝泊まりした時期もあった。
大阪にいたころ、綾子は「赤とんぼ」を歌いながら川沿いの道をよく散歩した。
これからどうなるの。神戸に戻りたい。優しかったお父さんに会いたい。土手で声を放って泣いた。リュウも一緒に切ない鳴き声を上げた。
2人の子を持つシングルマザーの次女(45)が住む兵庫区の復興住宅にようやく腰を据えたのは1998年ごろ。生活は落ち着きを取り戻し始めた。
ところが2010年、体が不調を来す。診察した医者は体内のカリウム濃度の高さに驚き、その日から週3日の人工透析が始まった。
それだけでは終わらない。
昨年6月には、長女(49)が白血病と診断された。長女は前の年に夫を亡くし、やはり1人で子どもを育てていた。入院した長女と、昼も夜も働く次女。自転車で家を行き来し、食事、掃除、洗濯一切合切を引き受けた。
アンケートを書いたのはこの時期。震災後の気持ちや生活の変化を示す〈心のグラフ〉は、書けなかった。娘が病に倒れたことを記し、「母親だからおかしくなってしまいます」とぶちまけた。
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昭三の納骨はしていない。毎朝ご飯を供え、話し掛ける。
「お父さん、のんきに仏さんなっとるけどな、私がこの20年どんな苦労してきたか…」
亡くなるまで大工の棟梁(とうりょう)だった。無口で職人肌。頼りがいがあり、ついていけばよかった。老後もそう暮らしていくもんだと思っていた。それなのに。日記に大きく書いた「なぜ どうして」。
でも、泣いてばかりはいられなかった。目の前に、自分と娘たちの生活があり、次々と苦難が押し寄せた。
「やるだけのことはやった。いつ死んでもええねん」
そんな言葉とは裏腹に今も、多忙な日々を送る。家事や病院通いの合間には、趣味の民踊や婦人会の仕事。「もう好きなように生きようと。そう思ってます」。さばさばと語って青い日記を閉じた。
=敬称略=
(黒川裕生)
2015/1/7