ここから抜け出したい。
阪神・淡路大震災で神戸市東灘区の自宅が全壊し、一番上の兄牟田口(むたぐち)武男=当時(22)=を失った佐々木静枝(33)=宝塚市=は、ずっと孤独感を募らせていた。
「しーちゃん」と優しく呼んでくれた兄「武(たけ)ちゃん」の話は、家族の誰も口にしなかった。心身ともに疲れていた父母と、あの日の話などできるわけがなかった。
震災前をゼロとして気持ちや生活の変化を書いてもらった〈心のグラフ〉も、長い間、低迷している。
高校2年のとき、震災で家族を亡くした中高生が南ドイツに招かれる企画に参加した。中世の雰囲気を残す都市、緑の大草原。「世界は広いな」。気持ちが弾んだ。1998年のグラフがひょこっと小さな山になっているのはここだ。
参加者は静枝の他に18人。でも、肝心の話題にはどうしても踏み込めなかった。
広島の大学に進学すると、震災はさらに遠のく。それでも毎年1月が巡るたび、記憶がよみがえり、胸がざわついた。
「私だけなのかな」
自分が変なのかとさえ感じていた。もう早く忘れたかった。
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グラフがぐっと上向きに転じるのは、就職し、仕事にも慣れてきた2005年ごろから。08年、夫の裕(ゆたか)(32)と出会った。まっすぐに生きている誠実さにひかれ、翌年結婚。グラフは震災前の水準を一気に乗り越えていく。
静枝は震災やその後の日々をぱたりと思い出さなくなった。2人であらたまって震災の話をすることもない。「話さなくても、ちゃんと分かってくれている」
忘れられない出来事がある。
三重県津市に住む裕の祖母を訪ねた08年夏。その地域は、過去に何度も大きな土砂災害に見舞われたという。話をした祖母が「あなたも震災で大変だったのよね」と涙ぐんだ。
不意に救われた気がした。その一言を待っていたような気がした。夫にも、同じものを感じる。
長男の勇人(ゆうと)(4)を産んだ後、11年に裕の仕事でドイツに移住。両親とはインターネット電話で話すようになった。
「東遊園地に行ってきたよ」
12年の1月17日だったか。母(64)が何げなく口にした。武男の銘板がある神戸・三宮の「慰霊と復興のモニュメント」を初めて訪れたという。驚いた。あれだけ避けてきた場所なのに。
ドイツにいた3年で心に余裕ができ、ようやく自立に向かえた。もしかしたら、両親も同じかもしれない。最近、母との会話に、「武ちゃん」が自然に出てくるようになった。
息子たちにも、いつか震災や「伯父さん」の話をする日が来るだろう。今年は私も、東遊園地に行ってみようかな。
武ちゃん、しーちゃんは今、とても幸せです。
=敬称略=
(黒川裕生)
2015/1/3