「そういえば『沙綾香(さやか)』って名前、声に出して言うの久しぶりですわ」
昨年11月末。桑田長一郎(37)=神戸市東灘区=は、少しほほ笑んだ。沙綾香。阪神・淡路大震災で命を奪われた長一郎の妹は、10歳だった。
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あの日、長一郎は高校のスキー合宿で長野の黒姫高原にいた。何度電話しても家と連絡がつかない。変わり果てた神戸に戻ったのは2日後だった。一家全滅を覚悟していた長一郎を、父の賢一(66)が高校まで迎えに来ていた。
「沙綾香が死んでしもたんや」。放心したような賢一の言葉に、思わず「1人で済んだ」と息をついた。
遺体安置所に、沙綾香はいた。
大人用の棺おけは大き過ぎた。すかすかの棺おけ。ティッシュを束ねて花を作り、黙々と入れた。
もう背中に乗せて遊ぶこともできない。覚えたての字で書いた手紙をもらうことも、髪を洗ってやることも。花をいくら作っても、隙間は埋まらなかった。
当初は、震災を直接体験していない分、家族に代わって自分がしっかりしなければ、と気が張っていた。死亡届のことに気付き、父に付き添って出しに行ったのも長一郎だった。
それでも鉄道や店、学校が再開し、街に日常が戻り始めると、取り残される気がした。家やビルが倒れていない「普通の街」を求め、受験勉強は大阪の図書館に通い詰めた。進学先は鳥取大を選んだ。
そのくせ「今日の晩メシ何?」と家に電話しては、車を飛ばして神戸に帰った。「本当に神戸が好きだな」と大学の友人に笑われた。あの街が好き。だから今の姿は見たくない。いつまでも気持ちは揺れ続けた。
大学は卒業せず辞めた。実家に戻った長一郎は今、長距離トラックの運転手をしている。
夜、六甲アイランドで荷積みし、山陰へ。翌朝、荷下ろしして帰ってくる。その繰り返し。震災直後、被災地に救援物資を送り届けるトラックが無性にかっこよく見えた。この仕事を選んだのは、だからかもしれない。運転中は無心だ。つらいことは、考えない。
長一郎の20年間の〈心のグラフ〉は一直線だ。「単調に気持ちが復旧していって、今は5割ぐらいかと感じるから」とアンケートに書いた。
この先どんなにいい出来事があっても、震災前の水準に戻ることはない。そう思っている。
沙綾香が写った最後の写真は、1995年正月の食卓。雑煮のわんを持つ顔は、横を向いていてよく見えない。
=敬称略=
(黒川裕生)
2015/1/4