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幸田修一さんが多くの人に慕われていたことがうかがえる寄せ書きや写真=西宮市樋ノ口町1(撮影・峰大二郎) 心のグラフ
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幸田修一さんが多くの人に慕われていたことがうかがえる寄せ書きや写真=西宮市樋ノ口町1(撮影・峰大二郎)

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 そういえばお父さんは、あの時こんなことをしていた。あんなことを言っていた。

 元小学校長だった幸田修一=当時(61)=の思い出を語り始めると、妻和子(77)と長女の道子(52)=いずれも西宮市、仮名=の話は止まらなくなった。

 時に大笑いしながら、気づけば4時間。

 「お父さんがたくさんの人の心に生き続けていることが感じられた20年。だから、めそめそしないで暮らしてこられた」

     ‡  ‡  

 修一は家では口数が少なく、ちょっとだらしなかった。寝転んでたばこを吸いながら、テレビでタイガースの試合を見るのが日課。典型的な「メシ、フロ、ネル」の人だった。

 ところが同僚や教え子たちにとっての修一像はまるで違った。和子と道子がそのことを初めて知ったのは、震災後のことだ。

 〈先生は、いつもにこにこしておられ、他人の悪口には耳を傾けず、自分の仕事のことを淡々と話しておられました〉

 修一は20代から人権教育に心を砕き、西宮市内の同和地区にある校外学級でも教えた。震災で自宅の下敷きになって命を落とした後、校外学級の若手教員たちから和子の元に「幸田先生と私」と題された文集が届けられた。

 そこからは後進に慕われ敬われた「先生」の姿が浮かび上がる。

 臨時で1年ほどしかいない教員にも、離任するときにはこっそり調べたその人の好きな花を贈った。震災前年、卒業アルバム用に撮った写真を見て「いい遺影ができた」と修一が冗談を言うと、若い教員が「縁起でもない」と泣いて怒った。

 教え子たちは今も、同窓会で修一の写真を掲げる。2013年には、中学卒業50年を祝う会が催され、和子も招待された。受け取った寄せ書きには、「もう一度先生に会いたい」と書かれていた。

 「普通に亡くなっていたら、こんなに覚えてもらえないですよ」。そう話す道子は、どこか楽しそうだ。

         

 アンケートは道子が書いた。震災以降、〈心のグラフ〉は10年ほど低調が続く。和子と2人、脳梗塞で倒れた修一の母を24時間態勢で介護。1999年に見送って、仕事を再開したものの、今度は体調不良に苦しんだ。東日本大震災の発生にも気分は落ち込んだ。

 グラフは今も決して高い位置にはない。ところが、修一の思い出話になると空気が変わる。

 「家族旅行も分刻みで予定を立ててね。あれは職業病ですわ」。母と娘は顔を見合わせてまた、大笑い。

 20年の間、悲しみを和らげ、2人を支えてくれていたのは、他ならぬ「お父さん」だった。=敬称略=

(黒川裕生)

2015/1/5
 

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