どこか不安定な線は、20年間、ずっと低いままに推移する。
阪神・淡路大震災後の心や生活の浮き沈みを示す〈心のグラフ〉=左上。書いたのは、植木職人だった父清一(きよかず)=当時(74)=を亡くした宝塚市の阪上勝弥(さかうえかつみ)(61)だ。
父の死、失業、そして母の死。「立ち上がる転機はなかった」。震災からの日々を振り返る勝弥の口は重い。ぽつり、ぽつりと言葉をつないでいく。
「正直に言うと、父のことをしゃべるのは煩わしい。普通に『オヤジは死んだ』ということでええやんか、と思うんです」
震災があろうとなかろうと、親はいずれ亡くなるもの。「常に震災がつきまとうのは嫌。もう風化していい」。勝弥はきっぱり言い切った。
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阪急山本駅の南西、宝塚市山本中2丁目の実家が全壊し、病院に運び込まれた両親に会えたのは、午前9時ごろだった。どうやらけがはないらしい。市内の自宅マンションから駆け付けた勝弥は、元気そうな2人の様子に胸をなで下ろした。
いったん病院を離れて昼前に戻ると、清一がいない。土壁の粉じんを大量に吸い込んだのが原因で意識不明に陥り、集中治療室に移されていた。
「回復の見込みはありません」
医師の言葉に覚悟を決めた。清一は一度も意識が戻ることのないまま、震災から2カ月半後、転院先の大阪府内で亡くなった。
「植木屋」の多い地域で、清一も昔かたぎの職人だった。怖いオヤジ。中学生のころは、仕事を手伝わないと殴られた。でも「家は継がない」という勝弥の決断は黙って認めてくれた。孫が生まれると、人が変わったようにむき出しの愛情を注いだ。
横ばいのグラフには書かれていないが、2006年末、勝弥は勤めていた電気設備系の会社を53歳で早期退職している。はっきりした転職先があるわけでもなく、1年ほどは失業保険で食いつないだ。
「仕事は今もうまくいかなくてね」。再建した実家に戻り、前にいた会社の下請けをしながらつましく暮らす。
清一の死後数年の間、気が抜けたようになっていた母は、08年に息を引き取った。80歳だった。
昨年12月、少年野球の試合が行われている小学校。「ストライク!」。球審を務める勝弥の大きな声が響いた。
3人の息子が小学生でチームに入ったころから指導に携わるようになり、かれこれ20年。「まあ息抜きですわ」。震災の話をするときとは打って変わって、晴れ晴れとした表情で口元を緩めた。
キャッチボールやノックの相手をして、子どもたちの成長を見守ってきた。震災後のごたごたの中でも、週末はグラウンドに足を運ぶ。そんな時間が、危うげな心のグラフを支えている。
=敬称略=
(黒川裕生)
2015/1/9