1995年1月16日。あの日の前日。
神戸市須磨区の須崎昭夫(58)は午後9時ごろ、父の鄒双福(すうそうふく)=当時(60)=が営む同市長田区久保町の理髪店に立ち寄った。
中華料理店「第一樓」(同市中央区)の調理場で働く昭夫。翌日、親類の葬儀に行く父にお供え用の菓子を手渡しに来た。
「競馬で10レース中8レースも当たったわ」。寡黙な父が珍しく冗舌だった。「近所の肉屋で、ええステーキ肉、買うてな」。さっきまで来ていた昭夫の弟にあげた、と上機嫌だった。
玄関先での立ち話は長くならなかった。「気をつけて帰りや」。父は笑顔で見送った。
約10時間後。昭夫は再び理髪店に急いでいた。
店は全壊。親類ががれきから父の遺体を運び出した。2階で寝ていた父の頭に、太い柱がぶつかっていた。
火葬場が混雑し、1月末まで待たされた。知人のガレージに棺おけを置かせてもらった。ドライアイスを敷いてはみたが、日に日に傷んでいく遺体を見つめることしかできなかった。
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父との会話はそう多くなかった。昭夫が家業を継がず料理人になると言った時も「そうか」と答えるくらい。自分の料理も食べたことはあるはずだが、感想を言われた記憶もない。男親はそんなもん。気にもしなかった。
でも、父を失った時はさすがに違った。「ほんの少し前まで話してたからね。なんでやねんって」
全壊した第一樓が再オープンしたのは翌96年10月。大勢の客で連日にぎわい、オードブル担当の昭夫も休む間もなく働いた。震災からの20年の気持ちや生活を表現してもらった〈心のグラフ〉も、上向いていく。
98年には一戸建てのマイホームを購入。父への気持ちも落ち着いてきた。
父と並んで寝ていた母の芳子(80)は柱の直撃は免れた。母もふさいだ時期があった。でも、今では「お父さんだけ柱にぶつかったのは、馬券が当たりすぎたからちゃうか」と冗談交じりに話すこともできるようになった。
グラフが最も高い位置にあるのは2006年。長男の智昭(27)が念願だった鉄道会社へ入社した。就職のためにと、家族4人で中国籍から日本国籍を取得していた。
12年3月、智昭は幼い頃から夢みた運転士になった。昭夫は妻と、息子が運転する電車の1両目で晴れ姿を見つめた。
ふと、父を思った。幼い智昭の頭をバリカンで丸坊主に刈り、かわいがった。この電車に乗せてあげたかった。
「家族にはできるだけのことをしてやりたい。いつ死ぬか分からないんだから」
自分も父の年齢に近づいてきた。グラフにもやや陰りが見える。「20年? 年とったということかな」。ふっと笑った。=敬称略=
(金 旻革)
2015/1/6