毎朝、神戸市須磨区の清水幸恵(74)は仏壇の前で般若心経を唱(とな)える。夫の弘明=当時(54)=を阪神・淡路大震災で亡くしてから欠かしたことはない。
仏前には夫が愛用した腕時計。茶色く焼け焦げていて文字盤も見えない。
「家族を見守ってね」
頼ってばかりじゃいけないと思いつつも、手に取るとつい、お願いしてしまう。
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あの日もいつも通り、夫婦の朝は早かった。長田区御蔵通の自宅。幸恵は弁当用の卵焼きを作っていた。弘明はトイレにいた。
そこへ揺れが来た。
夫の元へ駆け寄ると、隣のクリーニング店の大型機械が突っ込んでいた。
「わし、もうあかん」
そう言い残し、つかんだ手から力が抜けていった。その後、一帯は猛火に包まれた。
翌朝。自宅はすべて焼け落ちていた。熱の残る灰をかき分け、夫を見つけた。遺骨は全身きれいな状態で、傍らに腕時計があった。
お互い16歳のころ、兵庫区の夜間高校で知り合った。読書家で物知りな弘明に引かれ、7年後に結婚。長男を授かった。船舶エンジニアとして堅実に働き、年に数回は両家の親も連れて旅行もできた。
「退職したらどこに行こうか」。そんな話もぼちぼちするようになっていた。
これからを思うと涙が止まらなかった。初めて笑ったのは、2週間後に生まれた初孫の仁美(19)を見た時。「お父さんの生まれ変わりみたい」。霧が晴れるような思いだった。
震災以降の気持ちや暮らしを表現した〈心のグラフ〉は、山あり谷あり。仁美の白血病が分かった時は、大きく沈んだ。
2年ほど東京の病院で入退院し、無菌室で過ごした。「治してあげて」。腕時計に何度も願った。祈りが通じたのか骨髄移植で容体は安定し、抗がん剤の必要もなくなった。
後に、会社の同僚から、夫が孫の誕生を心待ちにしていたことを聞いた。家ではそぶりも見せなかったのに、「もうじき生まれるねん。女の子や」とうれしそうにしゃべっていたという。
「温かい気持ちのまま逝けたのは幸せだったかな」。夫は一生懸命生きた。少し短かったけれど。
幸恵は震災後、始めたことがある。高齢者施設を訪ね、自作の紙芝居を読み聞かせたり、民謡を歌ったりするボランティア。かつての自分では考えられなかったことだ。
きっかけは、被災者向けの絵手紙やパソコンの無料教室。夢中になり、悲しみが和らいだ。自分も誰かを喜ばせたくなった。
「お父さんがいたら、気ままにボランティアできないでしょ。夕飯の支度もあるしね」。いたずらっぽく笑う。
震災で人生は変わった。でも、生きる支えが夫であることは変わらない。お守りの腕時計のように、いつもそばに。
=文中仮名、敬称略=
(金 旻革)
2015/1/11