明石

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1923年、川崎造船所兵庫工場にあった飛行機工場(川崎重工業提供)
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1923年、川崎造船所兵庫工場にあった飛行機工場(川崎重工業提供)
松方幸次郎
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松方幸次郎
川崎航空機工業の沿革
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川崎航空機工業の沿革

 新幹線や特急列車、通勤電車など多彩な鉄道車両を国内外へ送り出す川崎重工業の兵庫工場(神戸市兵庫区)。兵庫運河のほとりに広がるこの地で、同社の飛行機づくりは始まった。

■戦線拡大軍要請に呼応

 1916(大正5)年。前身である川崎造船所の初代社長・松方幸次郎はロンドンへ渡った。第1次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)で船の引き合いが膨らむ中、造りためた船の売り込みを目的としていたが、予期せぬ製品との出合いもあった。同大戦で初めて戦線へ投入された航空機である。

 「これから航空機の時代が来る」。滞在先のロンドンが空襲を受け、技術の進歩を目の当たりにした幸次郎は帰国に先立つ18年7月、兵庫工場に飛行機科を設けた。

 この兵庫工場からわずか1キロ余り東に離れた三菱造船(現・三菱重工業)神戸造船所では、海軍から航空機製作の要請を受け、17年にエンジンの練習製作に着手。兵庫工場の隣の川西機械製作所(現・新明和工業など)も20年に航空機製作を始めた。日本の航空機産業が、神戸・兵庫で胎動していた。

    ◇

 「カワサキの航空機づくりは、絶え間ない成長の歴史だ。それは軍からの注文によりもたらされた」

 終戦後、空襲の効果を調べた米国の爆撃調査団は、攻撃目標だった川崎航空機工業(現・川崎重工業)の沿革について、こう報告した。

 軍の中でも、とりわけ密接だった陸軍とのつながりは、航空機事業の立ち上げと同時に生まれた。幸次郎がパリで仏メーカーから機体とエンジンの製造権を取得すると、同じくこのメーカーの技術の取り込みに動いていた陸軍は、川崎造船所に機体の試作を命じた。

 3年4カ月かけて完成させた試作機は、兵庫工場から鉄道と牛車で陸軍の各務原(かかみがはら)飛行場(岐阜県)まで運び、試験飛行を行った。飛行場の脇には、川崎が組立工場を設けた。

 27(昭和2)年に金融恐慌が起きると、川崎造船所の経営は傾いて幸次郎も辞任に追い込まれたが、航空機部門は陸軍からの受注に支えられて成長を続けた。

 一方で陸軍側も、航空機部門を川崎造船所の本体から切り離し、独立させる考えを強める。37年、川崎航空機工業が誕生した。

 その経緯について、同社の歴史に詳しい柴孝夫・京都産業大名誉教授は「中島飛行機や三菱など大手メーカーが陸軍のみならず、海軍にも航空機を供給する中、陸軍は専用の工場を育てたかった」と指摘。「航空機部門で上げた利益が、川崎の他部門の損失穴埋めに回ることを避け、航空機事業を成長させようとした」と解説する。

 満州事変に続き、同年には日中戦争が勃発。神戸と岐阜の両工場はすでに目いっぱいの拡張を重ね、それぞれエンジンと機体の製作に全力を挙げていたため、戦線拡大を背に高まる陸軍からの増産要求には、もはや応えきれなくなった。

 そこで新工場の構想が持ち上がり、建設地として白羽の矢が立ったのが兵庫県・明石の地だった。神戸の工場から近い▽貨物輸送や働き手の通勤を支える交通の便が良い▽土地が広くて平たん-などの条件を満たしたことが決め手となった。

    ◇

 38年7月、明石郡林崎村和坂に約182万平方メートルの広大な土地を取得。エンジンを製作する神戸の工場を移転するにとどまらず、機体工場と試験飛行場も兼ね備え、航空機の設計から試験飛行までを一貫して担える工場を目指した。

 高い理想を掲げた明石工場の建設はしかし、壁にぶつかる。軍需工場の建設が全国で相次ぐ中、統制の始まった鉄やセメントなどの資材を入手できず、工事が滞ったのだ。

 ようやく40年の夏にエンジン工場の3分の2と、機体工場の一部の完成にこぎつけたものの、部品を削り出す工作機械の調達や、機械を操作する工員の採用も思うに任せず、工場を十分に運用できなかった。

 そして41年9月。工場で製作した航空機の1号機が試験飛行に臨んだ。機体が滑走路からふわりと浮き上がり、明石の空へ飛び立つと、固唾(かたず)をのんで見守っていた地上の関係者らから歓声が上がった。(長尾亮太)

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