最愛の息子を思い、今年も神戸を訪れた。香川県の小豆島に住む三枝(さいくさ)秀樹さん(79)と宣子さん(77)は、甲南大文学部2年だった長男の秀彰さん=当時(20)=を亡くした。神戸に憧れを抱いていたという秀彰さん。「生きていれば今年50歳。どんな人になっていたんだろう」。揺れる灯籠の炎を見つめながら、30年の歳月を重ねた宣子さんがぽつりと言った。(杉山雅崇)
自然豊かな小豆島で、中学教師の両親の元で育った秀彰さん。子どものころから、おっとりとした心優しい性格だった。
華やかな都会に夢を膨らませ、「神戸の大学に行きたい」と周囲に話していた。甲南大に合格したのが分かると、勤務中の母親に電話をかけ、喜びを爆発させた。18歳で島を離れ、神戸市東灘区のアパートで暮らした。
震災2日前は成人式で、秀彰さんも帰省していた。もっとゆっくりするのかと思ったが、「神戸に戻る」と言い残し、その日のうちに島を出た。それが最後の別れになった。
あの日、小豆島も揺れた。その後、神戸で被害が出ていると知り、宣子さんは秀彰さんのアパートへ電話をかけたがつながらない。鳴った電話を慌てて取ると、「息子さんのアパートがつぶれ、残念ながらお亡くなりになりました」という友人からの連絡だった。
気持ちの整理がつかないまま、夫婦で連絡船に飛び乗った。満席だったが、事情を知った船長が席を用意してくれた。船で大阪まで移動し、車で神戸へ。遺体安置所で秀彰さんと対面した。
秀彰さんの死後、祖母のツヤ子さん(故人)は目に見えて憔悴(しょうすい)した。「私だって悲しいのに、祖母や子どもたちの前では気丈に振る舞いました。でも、お風呂で一人、よく泣いていました」と宣子さん。
震災から30年。秀彰さんが生きていれば50歳になる。宣子さんは「どんなおじさんになっていたんでしょうね」と寂しそうに笑い、「でも想像ができないです。遺影の秀彰は若いままだから…」と言葉を詰まらせた。
「この30年、ずっと健康でいられたのは、息子が空から見守ってくれたから」と宣子さん。秀樹さんと夫婦2人、いつか秀彰さんと再会できる時が来るまで精いっぱい生きようと思う。そして、いつかまた家族になって「やっと一緒になれるね」と声をかけたい。