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望月ジュニア選手(右)から蹴りを受ける望月マサアキ選手=神戸市中央区浜辺通5、神戸サンボーホール
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望月ジュニア選手(右)から蹴りを受ける望月マサアキ選手=神戸市中央区浜辺通5、神戸サンボーホール
父子でリングに上がる。望月ジュニア選手(右)の念願だったプロレスラーの夢が実現した((C)2022DRAGONGATE)
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父子でリングに上がる。望月ジュニア選手(右)の念願だったプロレスラーの夢が実現した((C)2022DRAGONGATE)

 神戸を拠点に活動するプロレス団体「ドラゴンゲート」で6月、2世レスラーの望月ジュニア選手(20)がデビューした。父の望月マサアキ選手(52)も同団体のレスラーで、強烈な蹴り技を武器に「魂の蹴撃王(しゅうげきおう)」の異名を取るレジェンドだ。同じリングで父の背中を追うジュニア選手に、対戦相手も「お前のオムツだって替えたことあるんだぞ」と叫ぶなど、感慨にふけっている。(大橋凜太郎)

 元空手家のマサアキ選手は、1994年にプロレスラーとしてデビュー。ドラゴンゲートでは前身団体の「闘龍門JAPAN」時代から活躍し、ハイキックをはじめとした蹴り技を武器に、団体の王座に何度もついた実力者だ。

■ひたむきに鍛錬

 そんな「蹴撃王」を親に持つジュニア選手にとって、プロレスラーは最も身近な職業だった。働く父の姿はいつでもテレビで見られるし、自宅に遊びに来るのは、そろって屈強な男たち。プロレスラーと同じ鍋を囲んだジュニア選手の夢は幼い頃から定まっていた。マサアキ選手は「サラリーマン家庭の子どもが会社員を目指すのと同じだと思うな」と真顔で話す。

 父の背中を追うように4歳で極真空手を始めたが、両親は「人の痛みを知って、いじめとは関わりのない子に育ってほしい」との願いを込めて見守った。空手で心身を養い、中高ではバレーボールで下半身を鍛え、夢に向かってひたむきに歩みを進めた。

 母はプロレスラーになることに「危ない」として反対し続けていたが、息子の熱意に押され、高校3年時には「大学を卒業してから」と譲歩するまでに軟化。畳みかけるように「どうせなるんだから大学に行ってもしょうがない」と説き伏せ、高校卒業後の入門を確約した。「反対されて諦めるならそれまで」と静観を貫いていたマサアキさんは最後に「俺が親なんだから、入ったが最後、何があってもやめられないぞ」と念押ししたが、ジュニア選手の決意は固かった。

■余韻なき初勝利

 晴れて2021年春に入門した。「想像を絶するきつさ」だった。10キロのランニングは日課で、腕立て伏せやスクワットは1日に千回やって当たり前。相撲部屋さながらの「ちゃんこ番」もあり、夜に片道40分のスーパーに走り、10キロの肉を担いで帰って調理した。

 半年後の入団テスト合格後は、厳しい練習をこなしながら全国の巡業に同行した。22年6月3日にデビュー戦の日を迎えると、マサアキ選手と共に、ミドルキックの連係などで攻めて初勝利。「感動でほろりといくのかと思っていたが、一人前にしないとという責任感で全く泣けなかった」と気持ちを新たにしたマサアキ選手だったが、当のジュニア選手は恐怖と不安で終始目が泳いでいたという。

 「蹴撃王」改め「魂のバカ親」として再出発したマサアキさんと、父の背中をリング上で追うジュニア選手に、周囲も親心を隠せない。ベテラン選手を中心に、かつて抱っこやオムツ替えに取り組んだ記憶がよみがえり、試合中に思い出話が飛び出すことも。「いつも父がお世話になっております」と語るなど、折り目正しいジュニア選手を、会場も温かい拍手で包んでいる。

■世界にただ一人

 プロレスラーは生きざまを見せるエンターテインメントでもあり、リング内外の振る舞いにも注目が集まる。身長が180センチに満たないことを理由に一度は夢を諦めたマサアキさんは、同世代の人に感情移入され、応援してもらうのがプロレスラーとの思いを抱き続ける。「昔ほど勝てなくなったが、52歳のおっさんが頑張っているリアルを見てもらいたい」と初心を忘れない。

 プロ意識は、既に息子に受け継がれている。ジュニア選手は「マサアキの息子は世界に一人、自分だけ。受け継ぐところは受け継いで、自分らしさを出していきたい」と意気込む。その上で「偉大な親を持って重圧を感じている人も少なくないはず。リング上で逆境を乗り越えてみせ、同じ境遇の人に勇気を与えたい」と曇りのない目で前を見据えている。

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