山へと延びる道路沿い、緑が深くなる山の入口に、古い小さな一軒家があります。
誰も住んでおらず、手入れをする人もいません。外から見れば、ただ放置されている家に見えるかもしれません。しかし、この家には、処分したくても誰も手を付けられない事情があります。
その家にはかつて、仲睦まじく暮らしていた人たちの姿がありました。
■仲良く、慎ましく暮らしていた二人
さち江さん(仮名・72歳女性)は、その家の所有者です。耕三さん(仮名・76歳男性)と長年連れ添っていました。耕三さんは穏やかな人物で、さち江さんのおしゃべりをニコニコしながら聞いています。
あるとき、さち江さんが体調不良で受診したところ、大腸がんが進行していることが分かりました。同時に認知能力の低下も見られました。
耕三さんも体調が悪く、あまり動くことができません。食事には宅配弁当を利用していました。さらに、喉に障害があるため声を出すことができませんが、うなずいたり首を横に振ったりして意思疎通は可能です。必要なときは筆談します。
本来であれば、耕三さんがさち江さんに関する事務を行いたいところでした。しかし、声が出ず、電話などで外部とコミュニケーションを取ることが難しいという理由から、成年後見制度を利用することがよいと考えたようでした。
成年後見制度は、認知症などによって判断能力が十分でない人の財産管理や契約などを、家庭裁判所が選んだ人が支援する制度です。本人の判断能力の程度に応じて「後見」「保佐」「補助」の3つに分かれており、さち江さんの場合は、このうち「保佐」を利用することになりました。
さち江さん自身が保佐開始の申し立てを行い、私たちの司法書士事務所が選任され、さち江さんの財産管理や必要な手続きを支援する保佐人となりました。
■さち江さんの死、耕三さんの転居
さち江さんの事務について打ち合わせるため、司法書士が自宅に直接伺い、耕三さんと話をする機会がよくありました。
耕三さんはいつもほほ笑んでいて、接する相手を自然と明るくするような人です。あるときは、自分の弁当を「あなたも食べませんか?」と差し出そうとしてくれたこともあったそうです。そして、さち江さんを助けたいと心から思っていました。
しかし、さち江さんはすでに大腸がんの末期で、余命いくばくもない状態でした。
耕三さん自身も、自宅で一人で生活するにはかなり不便だったと思います。それでも、さち江さんが望んだときにはいつでも帰ってこられるようにと、少し無理をして自宅で生活していました。
春を迎えるのは難しいとも言われていましたが、さち江さんは夏の終わりまで過ごしました。
それまで自宅で頑張っていた耕三さんは、さち江さんを見届けて安心したかのように、施設へ入所しました。
■空き家が生まれてしまった理由
耕三さんが施設へ入所した日を境に、自宅は空き家になりました。そして今、空き家となったこの家について、対処する人がいません。
理由は、さち江さんの財産を相続する人がいなかったからです。
この家が建っている土地は借地です。さち江さんは土地を借り、その上に家を建てました。
さち江さんは亡くなりましたが、耕三さんは家を相続できません。二人は内縁関係だったからです。
さち江さんは一人っ子で、生涯子どももおらず、戸籍上は独身でした。遺言も遺していません。
もっとも、さち江さんには財産がほとんどありませんでした。財産と呼べるものは、古すぎて価値があるとは評価されない、この狭小な自宅建物だけでした。
耕三さん自身も、もともとさち江さんの財産を当てにしていませんでした。加えて、さち江さんが亡くなった後は、少しでも早く施設へ入所したいと考えていました。
そのため、誰も手続きを進めません。
価値のある財産なら、相続財産清算人を選任してもらうことも考えられます。相続財産清算人とは、相続人がいない場合などに、亡くなった人が残した財産を管理し、必要な支払いや処分などを行う人のことです。
この家の場合であれば、建物を処分したいと考えるのはおそらく、利害関係人である土地所有者であると考えられます。
借地料はもう入ってこないのに加え、所有する土地上に古い建物があると、土地を他の誰かに貸すこともできません。しかし何も手続きをとらなければ、古い建物を取り壊す権限は、土地所有者には与えられません。
土地所有者がこの家を処分して更地にしようとするなら、相続財産清算人の選任を申し立てたうえで、建物の収去や土地の明け渡しを求めていくことが、方法として可能ではあります。
しかし、この家には、相続財産清算人を選任するためにかかる費用を賄えるほどの価値もありません。建物が建つ土地自体も、評価額の高い場所ではありません。
さち江さんにほかの財産がない以上、相続財産清算人の報酬や建物の解体費用を回収できません。土地所有者が自らそれらの費用を負担することになります。
現実的に考えると、おそらく、そこまでして土地所有者が手続きを進めることはないのではないかと予想されます。
■誰も動かせないまま、宙ぶらりんの家
誰のせいでもなく空き家となってしまった、宙ぶらりんの家。
管理されない状態が続けば、市町村から「管理不全空家等」や「特定空家等」と判断され、指導や勧告などの対象となる可能性があります。さらに倒壊のおそれなどが著しくなれば、命令や行政代執行による解体に至ることもあります。
しかし、特定空家等になったからといって、すぐに市町村が取り壊してくれるわけではありません。
主を失った小さな家は、誰かが費用を負担して手続きを進めるか、危険な状態になって行政による対応が行われるまで、長い間そこにあり続けることになります。
「狭いながらも楽しき我が家」が、「空き家問題の一端」に変わってしまった。
少し寂しさの残る事例でした。
◇山下静香(やました・しずか)関西第一司法書士事務所所属。事務職兼社会福祉士。
相続、成年後見、不動産登記などの実務に携わる一方、高齢者支援や福祉分野にも従事。 法律と生活、双方の領域にまたがる現場経験をもとに、「制度の中で実際に起きていること」をテーマに執筆している。 相続や介護、家族をめぐる身近な問題について、わかりやすく伝えることを目指している。
























