連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

  • 印刷
過酷な沖縄戦の体験を語る片山省さん=洲本市上物部(撮影・峰大二郎) 日本軍の特攻隊の攻撃を受け、炎上する米軍の弾薬補給船。米軍側が撮影した=1945年4月6日、沖縄県の慶良間諸島(沖縄県公文書館提供)
拡大

過酷な沖縄戦の体験を語る片山省さん=洲本市上物部(撮影・峰大二郎)

日本軍の特攻隊の攻撃を受け、炎上する米軍の弾薬補給船。米軍側が撮影した=1945年4月6日、沖縄県の慶良間諸島(沖縄県公文書館提供)

  • 過酷な沖縄戦の体験を語る片山省さん=洲本市上物部(撮影・峰大二郎)
  • 日本軍の特攻隊の攻撃を受け、炎上する米軍の弾薬補給船。米軍側が撮影した=1945年4月6日、沖縄県の慶良間諸島(沖縄県公文書館提供)

過酷な沖縄戦の体験を語る片山省さん=洲本市上物部(撮影・峰大二郎) 日本軍の特攻隊の攻撃を受け、炎上する米軍の弾薬補給船。米軍側が撮影した=1945年4月6日、沖縄県の慶良間諸島(沖縄県公文書館提供)

過酷な沖縄戦の体験を語る片山省さん=洲本市上物部(撮影・峰大二郎)

日本軍の特攻隊の攻撃を受け、炎上する米軍の弾薬補給船。米軍側が撮影した=1945年4月6日、沖縄県の慶良間諸島(沖縄県公文書館提供)

  • 過酷な沖縄戦の体験を語る片山省さん=洲本市上物部(撮影・峰大二郎)
  • 日本軍の特攻隊の攻撃を受け、炎上する米軍の弾薬補給船。米軍側が撮影した=1945年4月6日、沖縄県の慶良間諸島(沖縄県公文書館提供)

 4月28日を、沖縄の人は「屈辱の日」と呼ぶ。1952(昭和27)年のこの日、講和条約発効で主権を回復した日本の中で、沖縄は奄美、小笠原とともに米軍の統治下に置かれた。そして差別と屈辱の日々が始まる。沖縄は戦争中、国内最大の地上戦が繰り広げられ、民間人を合わせ20万人を超える命が犠牲となった場所でもある。洲本市の元陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は沖縄戦を戦い、所属部隊が壊滅する中で奇跡的に生還した。シリーズ「戦争と人間」第4部は片山さんの証言を届ける。名護から大里、識名(しきな)から具志頭(ぐしちゃん)へ。戦地を駆け回った片山さんは、69年前の激戦を振り返って言った。「肉弾戦でしたわ」(上田勇紀)

      ◇      ◇

 21歳だった。徴兵され、洲本から満州に渡って9カ月が過ぎていた。44年9月。通信手だった片山さんは動員令で鹿児島に送られ、さらに行き先を告げられないまま船に乗せられた。

 「あちこちから集められた通信手ばかり、四、五百人はおったかな。夏服と九九式の銃をもらったから、これは南方だなと思った」

 冬服と三八式銃は中国大陸、夏服と九九式銃はフィリピンなどの南方と決まっていた。所属部隊は「球12974」といった。防衛省防衛研究所によると、正式名称は「独立有線127中隊」。電話線などを使って命令を伝える「有線通信手」の集団とみられる。ただ小規模だったため、行動記録は残っていない。

 片山さんが沖縄行きを知ったのは船の中だった。隊長が告げた。「お前らは玉砕(ぎょくさい)要員だ」

 「玉砕せよ。そう言うても、沖縄は日本の国やないかい。日本の国で玉砕なんてあるんか、と思うたね」

 沖縄まで3日ほどかかった。その間、米軍の空襲や魚雷による奇襲に備える必要があった。大砲の砲手を任された片山さんは、甲板で配置に就き、がくぜんとする。

 「大砲と違うんですわ。木やねん。立派な大砲を据えとるように見せてね。シートめくったら丸太ん棒ですわ。僕も、誰もおらんのは変やから、おるだけのこと。敵の目をごまかすため、こんな手をやるんかと思いましたわ」

 「船は那覇に着きました。暑いですよ。外国へ行ったような感じでね。赤い屋根とか石垣があって。ハブも出るし。でも沖縄県って書いてあるから、まだ日本や。那覇で船団でも組むんかと思たら、上陸してどんどん北へ行進していった」

 この年の7月、日本の委任統治領だったサイパンが陥落。沖縄は、米軍が次に侵攻すると予想される地域の一つだった。米軍の上陸まで、あと7カ月。「玉砕せよ」。命令の意味も分からないまま、片山さんは沖縄の土を踏みしめた。

2014/4/28
 

天気(9月6日)

  • 33℃
  • 25℃
  • 10%

  • 34℃
  • 22℃
  • 10%

  • 35℃
  • 25℃
  • 10%

  • 36℃
  • 23℃
  • 10%

お知らせ