1945(昭和20)年6月、沖縄本島南部の具志頭(ぐしちゃん)。決死の総斬り込みに向かう直前、洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は隊長に呼び止められる。たばこを1本。そして特別な任務を命じられた。「全部、後始末しろ」
命令を言い渡した隊長は数十人の部隊を引き連れ、陣地を出て行った。残されたのは1班の4人。片山さんとフクダという初年兵、現地で召集された学生と防衛隊の隊員。階級は片山さんが一番上だった。
すぐに「後始末」の意味を理解した。
「集落の外れに、負傷兵を集めた小屋があったんです。僕はそこへ行って、手りゅう弾を投げ込みました。小屋の中に何人おったか、生きとったか死んどったか、なんも分からんです。とにかくアメリカに捕まって、情報を流されたらあかん。そういうことです」
「迷いはなかったですな。隊長に言われた命令をこなさなあかん。何も残したらあかんと。それだけを考えていました」
米軍の激しい砲撃のさなかで、手りゅう弾の爆発音は聞こえなかった。陣地に戻ると、フクダが無線機などを壊して回っていた。陣地の入り口に、腰を撃ち抜かれて動けなくなった兵が1人いた。
「同じ部隊で、東北出身のイナムラという男でした。『静かなところへ連れていってくれ』。イナムラは僕を見て、そう頼んできた。静かなところ言うても、そんなとこないから、仕方なく山の陰にしゃがみ込んだ」
「イナムラの腰から手りゅう弾を外して、地面にぽん、と置きました。『これ、置いとくで』と言うと、『うん』と。最期は見てません。自決したはずです」
「けがをしたら治療はないんです。誰も助けてくれへん。ついて来れるならついて来い、ついて来れへんかったら、そこでおしまい。それが沖縄戦でした」
山の上に米兵が見えた。声が聞こえるほどの近さだ。斬り込みは失敗に終わったのだろうか。指揮を仰いでいた独立混成第44旅団司令部が摩文仁(まぶに)にいると聞いていた。「行こう」。片山さんは、フクダら3人を引き連れて、歩きだそうとした。
ところが、フクダが首を横に振った。「ここに残る」。フクダはそう言って聞かなかった。
(上田勇紀)
2014/5/2