洲本市の元陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は9年前に妻に先立たれ、1人暮らす。おととし自宅前で転んでから、歩行器を使うようになった。
「毎年、慰霊の日の6月23日には沖縄へ行ってました。それが、こけてからは行けてない。リハビリをして、生きているうちにもう一度、行ってきたいと思うんや」
戦後、沖縄を30回以上訪れた。観光地には行かず、所属部隊の最期の地となった本島南部・具志頭(ぐしちゃん)や、自身が米軍に投降した摩文仁(まぶに)を巡った。
「斬り込みで仲間が死んだことはよう忘れません。沖縄へ行くたび、手を合わせてきました」
沖縄で日本軍は、住民を守らずに壕(ごう)などから追い立てた。現地で兵を召集し学徒動員を強いた。20万人を超す犠牲者のうち、約半数は民間人だった。沖縄の住民について語るとき、片山さんは長い間、沈黙した。そしてゆっくりと口を開いた。
「沖縄の人は、本土の人をものすごい愛してたいうんかなあ。自分のことを『僕』いうのを、女の人までまねしてた。本土の言葉がきれいと思ってね。兵隊をかわいがってくれて、そうとうお世話になった。そらもう、間違いない」
「沖縄戦が正しかったとは思わん。あれは、本土決戦ができるようになるまでの準備やった。それまで頑張れと。準備ができたら、もう負けていい。そんなんでしたからね」
あれから69年たった。戦争はずっと心にある。
「沖縄戦の場面が、今でも頭に出てきます。もう、こべりついてしもとるんや」
片山さんは折に触れ、所属部隊の隊長のことを口にした。負傷兵の後始末を命じ、後に収容所で再会した、前田中尉である。
「戦後だいぶたってから、中尉と会ったんですよ。熊本に旅行に行ったときに、この辺りやったなあと。こんなことはもう最後かもしれん、会いたいと思って、タクシーで突然、自宅を訪ねました」
「収容所で会って以来やったけど、すぐに分かってくれました。向こうは驚いて声も出んかった。こっちも『お世話になりました』言うたくらいで。ごちそうになって。沖縄戦の話はもう、せんかったです」
中尉は7、8年前に亡くなったという。中尉の妻からはがきで知らされた。部隊の記憶を刻む元兵士は、片山さんただ一人になった。(上田勇紀)
=おわり=
2014/5/11