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片山省さんは戦後、具志頭を再訪し、かつての陣地跡を捜した=洲本市上物部(撮影・峰大二郎)
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片山省さんは戦後、具志頭を再訪し、かつての陣地跡を捜した=洲本市上物部(撮影・峰大二郎)

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片山省さんは戦後、具志頭を再訪し、かつての陣地跡を捜した=洲本市上物部(撮影・峰大二郎)

片山省さんは戦後、具志頭を再訪し、かつての陣地跡を捜した=洲本市上物部(撮影・峰大二郎)

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 1945(昭和20)年4月、洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は通信手として、沖縄本島南部の識名(しきな)から、陸軍第32軍司令部のあった首里への伝令を続けた。

 「そらもう、危ないいうようなもんじゃないですよ。通信手は歩兵より命を落とす率が高かったかもしれん。弾の中を走り回るんやから。当たらんほうが不思議なくらいよね」

 「朝起きたら点呼とって、伝令に出て。夜の点呼になると、朝いた人数がおらんわけです。返事がなかったら『やられた』と。誰がおらんいうのは、いちいち調べない」

 片山さんも弾の破片が当たり、左足のすねに傷を負った。歩けないほどの傷であれば、負傷兵として戦線を離脱することになるが、かすり傷だったため任務を続けた。

 「食事時間なんて全然ないです。2、3日全然食べんこともありました。水だけです。野原を走るときに、サトウキビの根っこを剣で掘り返して、かじるんですが、それすらなかった時も多かったからね」

 5月末、米軍が首里を占領。第32軍は牛島満司令官以下、司令部ごと最南部の摩文仁(まぶに)へ移動した。片山さんの部隊も識名から具志頭(ぐしちゃん)へと後退した。「沖縄方面陸軍作戦」(旧防衛庁防衛研修所戦史室編)に、6月10日の具志頭周辺の戦況報告がある。「守兵ハ飲料水、食糧及弾薬ノ欠乏ニ苦シミツツ岩石地帯ノ不完全ナル急造蛸壺(たこつぼ)ニ拠リ熾烈(しれつ)ナル砲爆撃下善戦敢闘ヲ続ケ…」

 編成時に300人以上いた部隊はこの時、数十人になっていた。片山さんがいた「1班」には、フクダという初年兵、地元で召集された学生たち2人を合わせ、4人しか残っていなかった。

 「6月17日だったと思います。隊長が兵を集めて、『総斬り込みを行う』と告げましてね。斬り込みは手りゅう弾や爆雷を手に、敵の陣地に奇襲攻撃をかける『決死の手段』やった」

 片山さんは死を覚悟した。だが、決行直前になって「1班は残れ」と指示された。

 「隊長がたばこを1本くれてね。そんな時にたばこなんて夢にも思わんかった。これまで一度もなかったことやから、へえと思て」

 1班には、とんでもない任務が待っていた。

(上田勇紀)

2014/5/1
 

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