沖縄戦の話をいったん置いて、洲本市出身の元陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)の生い立ちをたどりたい。
片山さんは1923(大正12)年3月、小学校教諭の父京一、母花子のもとに生まれた。8人きょうだいのうち、姉2人に続く長男である。幼いころから野球が大好きで、仲間と打ち込んだ。洲本第三尋常小学校(現・洲本第三小学校)に入学し、1度腸チフスを患ったものの健康に育ち、淡路実業学校(現・淡路高校)に進んで寄宿舎に入った。
「いつのころからやったかな。それまで野球するときにはストライク、ボールと言うてたのが、急に『いい球』『悪い球』と言え、と。アウトは『あんたおしまい』『駄目』とかね。敵性語廃止でね。そういう指導があった。とにかく、日本語ではっきり言えと」
実業学校卒業後、40年4月に尼崎市の製鋼会社に就職した。翌年12月、日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まる。
「会社の先輩もたくさん軍隊に取られていった。召集令状が来たら、『行ってきます』とあいさつして出て行く。召集されんかったら人間として扱われん。国に奉公せんような人間は、一番カスという雰囲気やった」
「兵隊行くのが当たり前やったからね。嫌とかいう気持ちはなかった。そこから逃れることは、100パーセントないと思うてたね」
43年夏、二十歳になった片山さんも洲本市の公民館で徴兵検査を受ける。そして、最も評価が高い「甲種合格」とされた。
「検査は友だちと一緒に『行こか』いう感じで受けに行った。身長体重や病気があるかないかとか、いろいろ調べられて、最後に甲種合格のはんこを押された」
「これで当たり前やなと思った。戦場へ行けたら、うれしいくらいの気持ちやったですわ。ラジオでも新聞でも、日本が負けてるとは言わん。ずっと勝ってると思ってたからね」
この年、米軍の攻撃により日本軍は、ソロモン諸島ガダルカナル島から撤退。太平洋上の島々で戦闘が激しさを増していた。
「はよう戦場へ行こうや、と。覚悟はできてました」
(上田勇紀)
2014/5/5