1944(昭和19)年1月、洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は満州に到着した。4日目から厳しい初年兵教育が始まる。
「起床、食事、就寝。全部ラッパで動くの。それぞれに曲が決まっていてね。みな勝手に歌詞を付けて覚えてました」
「起床ラッパは『起きろ 起きろ みな起きろ 起きないと班長さんに怒られる』。食事ラッパは『兵隊さんのおかずは梅干しにらっきょ たまにはくじらのライスカレー』。就寝ラッパは『新兵さんはかわいそうだね~ また寝て泣くのかよ~』というふうに。今でもすぐに曲と歌詞が出てくるわね」
入ったばかりの初年兵には、1年先輩の2年兵が教育係としてついた。起床や食事で遅れはないか。反抗的な態度はないか。常に監視役として目を光らせていた。
「就寝前に毎晩どつかれた。殴られんことには眠らしてくれない。軍隊のしきたりやね。一日訓練を終えて、良くても悪くても殴られる。理由は『態度が悪かった』とかいろいろや。必ず5、6発はくるわな。やっぱり軍隊やなあと思った」
「食事でもね、みそ汁を飯にぶっかけて、急いで食べる。とにかく人より遅れたらあかんですよ。古い兵隊は一口ずつゆっくり食べるけど。僕らは何もかも競争ですよ」
訓練は銃を担ぎ、隊列を組んで歩く「練兵」が主だった。足をそろえ、広い練兵場を何時間も行進した。
「満州に来て半年たった7月に試験がありました。今までやってきたことを全部やらされてね。それで有線通信手に任命されました。そこからは通信手専門の訓練。赤白の旗を使う手旗信号やモールス信号を覚えてね。あとは、走って電話線をつなぐ訓練が主でした」
間もなく、部隊に動員令が掛かる。約600人がフィリピンの戦地へ向かった。残された片山さんらは沖縄へ。「玉砕命令」を受け、地上戦にまみれることになる。苦しかった満州での初年兵時代が、平穏だったと思えるほどに。
時計の針を進め、沖縄戦の話に戻りたい。45年6月、激戦を生き抜き、沖縄本島最南部の摩文仁(まぶに)で米軍に投降した片山さんは、屋嘉(やか)の捕虜収容所にいた。(上田勇紀)
2014/5/8