1945(昭和20)年6月末。沖縄本島の屋嘉(やか)の捕虜収容所に、洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)の姿があった。7月に入り中部西海岸の収容所に移される。広い敷地に数多くのテントが張られ、その中で眠った。
毎日、新たに捕虜になった日本兵がトラックで送り込まれてくる。知り合いはいないか。片山さんは柵にへばりついて、見知った顔を捜すのが日課となった。
「そしたら、隊長を見つけたんですよ。具志頭(ぐしちゃん)の陣地で、斬り込み前にたばこをくれた隊長を。僕に『後始末』を指示した人やね。もうびっくりしたですよ。向こうも『片山、生きとったか』って言うてね」
隊長は、熊本県出身の前田という中尉だった。片山さんが収容所で、同じ部隊の人と会った最初で最後の出来事となる。
「ほかの兵隊がどうなったかは聞きませんでした。でも、生きていれば出会っているはずや。まさか隊長だけ生きてるなんてなあ。斬り込みの途中で負傷して、アメリカの治療を受けたらしい」
隊長ら将校は別の場所に移され、話す機会はほとんどなくなった。そして8月15日。終戦は米軍の空砲で知った。
「僕らは最初、日本軍の特攻隊がやって来たと勘違いしました。アメリカ軍が祝砲を上げてたんですな。それで、負けたと知りました」
戦後も捕虜生活は続いた。野菜の栽培やごみ捨てなどの作業をこなす日々。捕虜になって1年になるころ、片山さんは意を決して脱走を図る。
「ずっと捕虜になった負い目があったです。だから逃亡を狙った。日本軍なら、捕虜が逃げて捕まったら銃殺ですよ。アメリカやったらどうするやろか。それをじっと考えたね。けど、そんなことでは逃げられへん。死んでもともとや。外に作業に行ったとき、監視兵が昼食に行っておらんかったんですよ。そこで逃げたんです」
山の中をさまよい歩いていると、嘉手納(かでな)の飛行場に出た。すぐに米軍の車両に取り囲まれた。逃亡から2日もたっていなかった。
「2週間、水だけ。昼間は立ったままで、夜になってやっと座らされた。それが罰でした」(上田勇紀)
2014/5/9