連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

  • 印刷
収容所に集められた日本人捕虜を監視する米軍兵=1945年6月20日、沖縄県(県公文書館提供)
拡大

収容所に集められた日本人捕虜を監視する米軍兵=1945年6月20日、沖縄県(県公文書館提供)

  • 収容所に集められた日本人捕虜を監視する米軍兵=1945年6月20日、沖縄県(県公文書館提供)

収容所に集められた日本人捕虜を監視する米軍兵=1945年6月20日、沖縄県(県公文書館提供)

収容所に集められた日本人捕虜を監視する米軍兵=1945年6月20日、沖縄県(県公文書館提供)

  • 収容所に集められた日本人捕虜を監視する米軍兵=1945年6月20日、沖縄県(県公文書館提供)

 洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は沖縄本島最南部の摩文仁(まぶに)で、海を望む絶壁に座り込んだ。背後に米軍、眼前に海。片山さんが沖縄へ向かう船の中で「玉砕命令」を受けてから9カ月が過ぎていた。

 「摩文仁で2、3日、じっと考えました。捕虜になるか戦うか。兵隊にしたら、一番情けないことは捕虜になること。それでも、自決は考えらんかった。負傷していたら別やろうけど。自決するくらいならアメリカ兵に向かっていくわね。どうすべきかいな、どうすべきかいな…」

 1945(昭和20)年6月23日、陸軍第32軍の牛島満司令官が摩文仁で自決した(22日との説もある)。すでに海軍の部隊は壊滅しており、沖縄での日本軍の組織的戦闘は終わりを告げた。

 ただ、牛島司令官は死に先立って「既に部隊間の通信連絡杜絶(とぜつ)せんとし軍司令官の指揮は至難となれり(中略)最後迄(まで)敢闘し悠久(ゆうきゅう)の大義に生(い)くべし」との命令を下していた。このため、断続的な戦闘は続いた。

 「沖縄本島の北へ逃れれば、アメリカは少ないはずや。そこから本土へ向かう手段はないやろか。でも、海を何十キロも泳がれへん。それで思いついたんは、いったん捕虜になってから逃げたろうと」

 「捕虜になったら殺されるかもしれん。一番の心配はそれやったですよ。でも、心配してても前に進まない。やられようと助けられようと、向こう次第やと覚悟を決めた。アメリカに無抵抗で近づいていきました」

 多くの戦友が命を落とし、ひとりぼっちになった片山さんは摩文仁で米軍に投降した。

 「すぐにアメリカに手りゅう弾を没収され、トラックに乗せられました。荷台は日本兵で満杯でした。そして、屋嘉(やか)の収容所に着きました」

 「全員まとめて柵の中に放り込まれて、夕食にアメリカの携帯弁当を渡されました。缶詰、ビスケット、あめ、チョコレートね。そういうのが一つになっているの。たばこも3本付いていた。『ああ、こんなにいろんなものが入っとんのか』って思ったわね」

 片山さんの長い収容所生活が始まった。

(上田勇紀)

2014/5/4
 

天気(9月6日)

  • 33℃
  • 25℃
  • 10%

  • 34℃
  • 22℃
  • 10%

  • 35℃
  • 25℃
  • 10%

  • 36℃
  • 23℃
  • 10%

お知らせ