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空襲を受け、煙を上げて炎上する市街地=1945年、那覇市(沖縄県公文書館提供)
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空襲を受け、煙を上げて炎上する市街地=1945年、那覇市(沖縄県公文書館提供)

  • 空襲を受け、煙を上げて炎上する市街地=1945年、那覇市(沖縄県公文書館提供)

空襲を受け、煙を上げて炎上する市街地=1945年、那覇市(沖縄県公文書館提供)

空襲を受け、煙を上げて炎上する市街地=1945年、那覇市(沖縄県公文書館提供)

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 1944(昭和19)年10月、洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)の所属部隊は、沖縄本島北部の名護に着いた。そして陸軍第32軍「独立混成第44旅団」司令部の指揮下に入る。

    ◇    ◇

 「兵としての訓練はたった1日だけ。木材の伐採を命じられ、50人ほどで毎日、山に入りました。自然壕(ごう)の補強に使う木ですわな。夜は部隊があった中学校の校舎に戻り、交代で不寝番でした」

 10月10日のことだった。突然、空襲警報が響き渡った。

 「グラマン(米軍戦闘機)がひっきりなしに来る。数なんて分からんかったです。『ドーン』とでも言うんかなあ。1発や2発やないから、口で表現しようもない。みな山の上へ上がってね。ただ見とるだけです。何もできん。とにかくね、見渡す限り穴だらけやな」

 この日の空襲は、後に「10・10空襲」と呼ばれる。片山さんにとって、初めて体験する空襲だった。「沖縄方面陸軍作戦」(旧防衛庁防衛研修所戦史室編)によると、朝から夕にかけて計5回、のべ1030機の米軍機が来襲。陸海軍218人、民間人330人が死亡。家屋1万1451棟が全焼・全壊した。

 「きれいな街、という印象だった名護の街は変わり果ててしまって。民家なんかつぶれてね。住民はもう家を建てるのを諦めて、それきり壕に入って生活しよったわね」

 年が明けると、片山さんの耳にも「アメリカの上陸が近い」という情報が入ってきた。所属部隊は首里に近い大里へと南下。米軍が本島南部から上陸した場合に備えての移動だったという。

 「そのころ、那覇商業の生徒が部隊に入ってきた。軍事教練も受けとらんのに、戦闘に参加するんやから。当たり前やけど、道案内くらいにしか役に立たんかった」

 記録では、45年3月、那覇商業(当時の那覇市立商工学校)の生徒が第44旅団に陸軍2等兵として入隊し、情報班に組み込まれている。ほかの学校でも、男子生徒は「鉄血勤皇隊」と命名されて陸軍部隊に、女子生徒は陸軍病院や野戦病院に送り込まれた。その数は約2千人に上る。

 3月24日、米軍艦隊が艦砲射撃を開始。「鉄の暴風」と表現される本格攻撃の始まりである。4月1日には、陸上部隊が本島中部の読谷(よみたん)から北谷(ちゃたん)の海岸に上陸した。

 「玉砕命令の意味が分かったのは、それからでした」(上田勇紀)

2014/4/29
 

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