1946(昭和21)年。洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は、沖縄本島の捕虜収容所で脱走を繰り返した。
「結局、全部で7回逃げました。本土に逃げて淡路に帰るつもりでした。捕虜として帰るより、野戦から帰ってきたと思われたかった。自分ぐらいでしょう、それだけ逃げたのは」
片山さんが復員し、古里の土を踏んだのは48年1月だった。沖縄県平和祈念資料館によると、47年2月までに日本兵の本土送還は終わったことになっている。しかし、片山さんはさらに長く収容所にいたと記憶する。
「僕が一番遅かったです。みんな先に帰っていました。逃亡を繰り返したために、最後までおらされた。洲本の実家に帰ったときには、家族はみなびっくりしよったです。一度『生きとる』と、はがきを送ったことがあっただけやったから」
「それでも戦闘状態から家に帰ると、すぐには落ち着かんもんです。毎日ただ、ぼーっとしとった」
戦後、中学校教諭やタクシー運転手をして生計を立てた。小学校教諭だった恵伊子(えいこ)さんと結婚し、2人の子どもに恵まれた。
「家族にもあまり自分の体験は話しませんでした。話したら、ばかにされるんちゃうかと。それに、えらい目をしたんは僕だけやない。淡路におっても、みんなえらい目をしとるんやから。それは一緒やから。あんまり、話はせんかったです」
唯一、心置きなく沖縄戦について語れるのは戦友会の集まりだった。あの日々を生き抜いた仲間となら、夜通しでも話し込んだ。戦友会の仲間には、沖縄本島南部の具志頭(ぐしちゃん)で、負傷兵がいる小屋に手りゅう弾を投げ込んだことも打ち明けた。
「仲間から『なんで日本兵が日本兵を殺すんや』と責められたこともあったけどねえ。あのときは仕方なかった。そう言い訳するしかなかった」
その戦友会も、かつては毎年、会合の案内が来ていたのに、近年は音信が絶えた。
「もう、つぶれたのかな。いつも会を呼び掛ける役員が亡くなって、それきりです」
(上田勇紀)
2014/5/10