具志頭(ぐしちゃん)の陣地の「後始末」を終えた洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は、フクダという初年兵と現地召集の学生たちを連れ、沖縄本島最南部の摩文仁(まぶに)へ向かおうとした。背後から米軍が迫っていた。1945(昭和20)年6月17日ごろのことだ。
だがフクダは「ここに残る」と言った。片山さんは無理に連れて行こうとはしなかった。
「軍事教練を受けた満州時代から一緒で、同年代の男でした。フクダは日本の負けを感じていたんやと思うんです。自決しかないと思たんやろう。僕はそのとき、まだ諦めてなかったから、フクダを残し、学生らを連れて南へと急ぎました」
「のどが渇くと、砲撃でできた水たまりで泥水をすくって飲みました。摩文仁に着いたのは、確か昼ごろです。もう建物も集落も何もない、野原みたいになっていてね。左手は断崖で、海が広がってましたわ」
どこを捜しても、指揮を仰ぐつもりの独立混成第44旅団司令部が見つからない。「沖縄方面陸軍作戦」(旧防衛庁防衛研修所戦史室編)の記録では6月18日、第44旅団司令部をはじめとする残存部隊が確かに摩文仁周辺に集まっていた。しかし戦力はほぼ尽きていた。
「出会うのは住民ばかり。『兵隊さん、連れて行って、連れて行って』と何度も頼まれた。子ども連れとか、お年寄りとかね。兵隊がおったら安心するんかね。でも足手まといになるから、全部断りました。兵隊には兵隊の仕事があるから。住民がその後どうなったかは、分からんです」
「沖縄県の歴史」(安里進氏らの共著)によると、戦闘を逃れた多数の民間人が南部一帯に殺到し、自然壕(ごう)や墓地に身を置いていた。そこへ南下してきた日本軍の残存兵が合流し、住民を強制的に追い出したり、食料を強奪したりする事態が頻発した。
「両手を挙げてアメリカに助けを求める住民も多かった。僕は一緒にいた学生ら2人に降伏を勧めたんや。『あんたらは兵隊と違うんやから、行ったらどうや』。そしたら、『はい、行きます』いうて。そこで別れました。とうとう、僕はひとりぼっちになってしまった」(上田勇紀)
2014/5/3