1945(昭和20)年4月1日、米軍が沖縄本島中部の西海岸に上陸した。洲本市出身の陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は南部の大里にいた。
「米軍が上陸したのはすぐ分かりました。『今、アメリカが上陸した』と伝令が来たからね」
片山さんは部隊とともに識名(しきな)へ移動。通信手として識名と、陸軍第32軍司令部があった首里の間を往復する。
「何度走ったか分からんです。識名で上官から命令をもらい、文書が入った命令袋を渡される。それを首里まで届けるのが仕事。どんな文書かは読んだことがない」
通信手として教育を受けた満州では、電話線をつないで電話機を設置する「有線」の訓練を受けた。しかし、絶え間ない艦砲射撃で線はすぐに切れてしまう。一方、「無線」による通信は敵に解読される恐れがあり、あまり使われなかったという。
「結局は人間が走るほかしょうがない。それもね、最低5、6人が同じ文書を持って走るの。途中でやられても、誰かは着くやろう、ということでね」
米軍は圧倒的な戦力で本島を南下した。戦車を投入し、大砲で攻撃。その後、歩兵部隊が突き進む。海からの艦砲射撃もやむことがない。追い込まれた日本軍は、鹿児島の知覧(ちらん)基地などから特攻作戦を開始した。
「特攻隊は毎晩のように来て、肉眼でも見えました。でも米軍艦隊はそれこそ、海が黒くなるくらい来とる。そこからどんどん撃ってくる。ひっきりなしに撃ってくる」
鹿児島県の知覧特攻平和会館によると、本格的な特攻出撃は4月6日に始まった。250キロ爆弾を装着した戦闘機で、艦船などに体当たりする。作戦による死者は1036人。その9割が、艦船に当たる前に撃ち落とされたとされる。
米軍の南下に伴って、片山さんの任務も危険が増していく。
「どこで、いつアメリカ兵と出くわすか分からん。とにかく弾の落ちるところを避けて通るしかない。戦況の悪化は分かってたわね、口では言わんけど。日本軍は日に何十人と死んでいく。減ったら減ったままですよ。アメリカ軍は10人やられたら、その倍、3倍と補充してきた」
(上田勇紀)
2014/4/30