町工場が立ち並ぶ神戸市長田区の一角。更地に建ったその店は、働く人々の思いを込め、「夢屋台村」と名づけられている。
昨年八月のオープン以来、お世辞にも好調とはいえない。昼は周囲の勤め人で埋まるが、夜はちらほら。客からは「給料が減って飲みにもいけない」という嘆きを聞く。
オーナーの橋本利彦さん(40)は以前、ここで貸工場を営んでいた。一階が工場、二階が自宅。震災の一年前に亡くなった父から受け継いだその建物は、震災で全壊した。
新築する余裕はなく、駐車場にしようかと考えた。しかし、周囲は、いつでも駐車場になりそうな更地だらけ。そんな時、「新しいことを始めたら」と持ちかけたのが、義理の兄、野吹浩彦さん(48)だった。気弱になっていた自分の背中を、その言葉がポンと押し出してくれた。
野吹さん自身、二十三年勤めた大阪の商社で、将来は見えていた。自分の考えでものごとを進められないサラリーマン暮らしに、そろそろ終止符を打ちたいと考えていた。
東灘区のマンションは半壊。妻は病気で亡くしており、二人の子供のためにも時間を自由に使える自営業のほうがいい、と決断した。
「地震がなかったら、モヤモヤしながらまだサラリーマンを続けていたかもしれない」
だが、実績のない「新規事業」の計画に、金融機関は冷たかった。それでも、兄弟で走り回り、二千万円以上をつぎ込んで屋台村を完成させた。
すでに返済は始まっている。後戻りはできない。
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仮設テントの屋台村は、約九十席のホールを、種類の違う七つの店舗がぐるりと囲む形になっている。橋本さんがドリンク専門店とうどん店。野吹さんが洋食屋。そのほか、カレー屋、たこ焼き屋などを友人たちが経営する。
皆、震災の痛手から立ち直りたいと、ここに夢をかけた人ばかりだ。
おでんと焼き鳥の店を切り盛りする木村恭子さん(37)=仮名=は、震災前、生命保険のセールスレディーをしていた。震災で得意先が被害を受け、契約をとるどころではなくなった。三十五年ローンで買った自宅も全壊だ。
夫はサラリーマンだが、二人の子供の教育費、かさむ住居費を考えれば、自分が働かないわけにはいかない。屋台村の話を聞き、飛び込んだ。
必死に働く日々。しかし、価格を抑え、メニューを研究しても、街に人が戻って来なければ、客は増えない。自宅の再建でも、住宅金融公庫の融資は一定の面積以上でないと対象にならない。「水準に達しない人を助ける仕組みにはなっていない」と、つくづく思う。
同年代の友人からも、同じ思いを聞く。「無理してマンション借りて損した」「仮設に入っとけばよかった」…。震災から一年あまり、自力で走り続けてきた人たちにそう思わせる「復興」とは、一体、何だろう。そんな疑問がわく。
「みんな自分の生活再建で精いっぱい。不満を感じてても、声を上げるエネルギーさえない。自助努力をしてる層がもっと前向きになるような後押しがほしい」
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それぞれの生活をかけて、今日も屋台村のちょうちんに灯がともる。「夢」をもって、走り続けるしかない。
1996/3/16