「食べていくため、全くなじみのない職業につかざるを得ない人は、一年たった今も、被災地に数多くいる。しかし、そのつらさは統計の数字に表れてこない」
甲南大学経済学部の熊沢誠教授はこう指摘し、身近に見た情景を話す。
震災からの復旧工事が続く同大学。作業員らしい男性が学生食堂で話していた。「雇ってくれたら、おいしいもんを出すのに…」。恐らくは、再建のめどが立たない飲食店主だろう。熊沢教授は、胸が塞(ふさ)がる思いだったという。
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商店街で営んでいた酒屋が全焼した沢田耕一さん(49)=仮名=も、よく似た立場にある。
職業安定所では、四十歳以上の仕事探しがいかに難しいかを知った。焦りが募った。ようやく見つけた”出口”が、職業能力開発促進センターの「震災特別講座」。雇用促進事業団が運営し、再就職者に配管の技術を教えるという。
半年間、神戸からセンターのある加古川まで通った。センターの所長は「震災失業」に苦しむ修了生のため、必死で仕事を探してくれた。修了後、配管工事の会社に就職できた。
「とても感謝している」。経済的な安定を取り戻し、焦りからは解放された今、沢田さんはいう。しかし、新しい職場への戸惑いもある。講座で習っていない作業があるから、使い走りのような仕事しかできない。現場監督は二十代の若者だ。
「不満はない。もう一国一城のあるじやないし、気持ちを切り替えんとあかんのは分かっている。そう、バカになればいいんです」
昨年の秋以来、高速道路のがれき撤去現場で働いてきた神戸市中央区の長谷川忠一さん(51)の本職は、研師だ。
金物の街、小野市の生まれ。街角に座り、主婦や商売人が持ってくる刃物を研いでいた。が、震災でお得意さんはちりぢりになった。
復興の最前線を支える、といっても、作業のほとんどは重機が片付けてしまう。機械を操れない自分は手持ちぶさたの時間がつらい。「生活のため」と割り切った。
震災から立ち直っていない神戸で、「技術が生かせないのは仕方ない」と思う。研師という仕事自体、先は明るくなかった。最近は包丁を研ぐ主婦が少なくなった。切れなければ買い替える。別のアルバイトをしながらでも技術を守り続けてきたが、震災は、そのこだわりを捨てさせる「決定的打撃」になった。
三月。長谷川さんは土木作業の仕事を辞めた。以前から話のあった大工の手伝いをするためだ。解体するだけの現場と違い、工具を使うぶん、自分の技術が役に立つかもしれない。
「暇があったら、仕事に行った家の包丁、研いであげたいね」。言葉の中に、何十年も積み上げてきた技術への思いがのぞく。
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神戸公共職業安定所には今年一月、三千件を超える新規求人があった。警備員や清掃員を含む「サービス業」と、震災後に急増した「建設業」の上位二業種で半数を占めるのに対し、求職希望は「事務職」や「販売職」が中心。被災地のミスマッチは鮮明だ。
同月、新規求職者三千五百三十一人のうち、仕事が見つかった人は一四・六%。最終的に希望の職種に就けたかどうかは、職安でもつかんでいない。
1996/3/13