このごろ花の夢を見る。せりを終えて帰ろうとすると、車が見つからない。探し歩くうち目が覚める。
山木繁さん(70)は昨年六月、神戸市長田区の尻池市場で一九四七年から営む花屋を閉めた。年金と少々の蓄えがある。
店は全壊。四月にはベニヤ板で補修し、いったん営業を再開した。しかし、周辺の文化住宅は駐車場に変わり、もともと減少傾向の客が決定的に減った。二カ月間の仕入れ百万円に対し、売り上げは百四万円だった。
長持ちする花を安く。それが下町で商う山木さんの信条だった。「完ぺきなせりは一度もなかった」と述懐するほど、せりにこだわった。だが、そうして仕入れた花が店頭でみずみずしさを失う日が続いた。初めて閉店を考え、決断した。
大正生まれの尻池市場は息絶え絶えだ。最盛期三十八あった店が、震災前ですでに九店に。今は五店。
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神戸商工会議所によると、神戸市内の市場八十団体、約二千店のうち、震災一年後の再開率は七四%。灘、長田区では七〇%を切る。
経営者の高齢化。都心の過疎化。大規模店の進出。市場をめぐる状況は震災前から厳しい。行政からも、市場関係者からも同じ声が聞こえていた。「やる気のない所は自然消滅するだろう」と。
尻池市場にこれまで、改革の機運がなかったわけではない。
九三年に食料品店を閉めるまで十五年間、市場の会長を務めた井戸勇さん(72)によれば、県の市場再開発の指定第一号になるなど、七〇年代から行政の働きかけはあった。コンサルタントが派遣され、何度も勉強会を開いた。全国の市場を見学した。
井戸さんは、共同化し、スーパーマーケット方式の「セルフ販売」にするのが持論だった。しかし、一本化には至らなかった。「うちの市場は、こうしたいから、こうして、と行政に言えなかった」
そうこうしているうち、ピーク時に一万三千人あった地区人口が、約五千人に減った。
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「もう市場と言えんかなぁ」。いま、四店の店主が七十代。現役最若手となったかしわ屋、松村等さん(66)が無念そうに言う。
震災後、二百万円かけて大型冷蔵庫と陳列ケースを入れた。だが、もうけは「光熱費程度」。品数を少なくしたから、客に「置いていません」と、たびたび謝らねばならない。「恥ずかしい」ともらす。
それでも続けるのは、働くことが生活の一部だからだ。避難先から名物の焼き鳥を買いに来る人がいる。
「腰痛があるし、この年齢だし、だれも雇ってくれない。でも、店を開いているから、お客さんと話もできる。やめたら、気の張りがなくなる」
市場の会長を務める総菜屋の下岡よし子さん(71)も「生きがいだもの」と言う。客から震災後の苦労話を聞くことが多い。「お互い心のケアになるんよ」。上がりこんで、こたつに入る客もいる。
「いまは自分のことは自分でできる。店やめたら、人の世話になるだけやないの」
高齢社会でこそ、高齢者の働き場所を確保することに意味がある。自立につながるのだから。震災で傾いたシャッターが並ぶ市場が、そう訴えている。
1996/3/10