初出勤となった二月初めの朝。小川武憲さん(44)=仮名=は、神戸市長田区にある新しい職場の裁断機に革をセットしながら、不安を覚えた。「今度の会社、どれぐらい仕事があるんやろ」。長く勤めた会社が震災で全焼して以来、四つ目の職場だった。
三十年近く、「裁ち屋」とよばれるケミカルシューズの裁断業に就いてきた。一枚の革材料から何足分とるか、そこが腕の見せどころ。特にいい革を扱うときほど気合が入る。根っからの職人だ。
その職人の世界が、震災で大きく揺らいだ。
会社と歩合制で契約する「受け取り」という雇用形態が長田にある。小川さんのような裁断工やミシン工などで高い技術を持つ人に多い。腕次第で正社員よりも高給が取れ、出退勤も自由だ。小川さんには、有り難い制度だった。
しかし、「受け取りは手取りを多くするため、雇用保険も払わないケースが多い」(中堅メーカー社長)。雇う方、雇われる方とも了承済みとはいえ、会社が壊れるといった危機にはもろかった。
「腕さえあれば一人でやっていけると思ってたから。ほんま、こんなこともあるんやなあ」
小川さんの以前の会社も、雇用保険に加入しておらず、たちまち収入ゼロのピンチに陥った。すぐに雇用保険に加入し、遡及措置(そきゅうそち)で五カ月間の失業給付を適用されたものの、後ろ盾がない不安は身に染みた。
加えて今、受け取りの仕事量は激減している。「わしら、受け取りで生きんとどうにもならんけど、これでは家族は養えん」。
自由に振る舞えた昔ながらの職人の世界が、震災でいや応なく時代の風にさらされている。そう思えてならない。
◆
神戸市長田区を中心とするケミカルシューズ業界。その雇用吸収力は大きかった。七十から八十ある靴の工程が分散され、地域全体が一つの工場として機能していた。熟練工からパートや内職の主婦、高齢者、外国人。幅広い層が、それぞれの持ち場で働ける仕事があった。
震災後、この構造が崩れた。一挙に一万人以上の職が失われたのではないか、と神戸市の担当者は推定する。立ち直りは思うようには進まない。県や市の復興計画は「一日も早い立ち上がり」と「産業の高度化」と、時に相反するような命題を掲げる。
「復興の中で、いわゆる”昔の長田”は戻らないと思う。新しい仕組みの下で再編していかざるを得ないからだ。だが、そのバイタリティーは残すべきで、それには街づくりと産業が一体となった再生策を考えるしかない」。加藤恵正・神戸商大教授はそう指摘する。
◆
神戸市西区の仮設住宅に住む女性(59)が、先日、年末に解雇されたばかりの神戸市長田区のメーカーを訪れた。家からも近く、パートとして勤続十八年。退職金に代わるせんべつを受け取りにきたのだ。
「これだけ勤めると、自分の家と同じようで、なじみがありますよ」。社長(66)と懐かしそうに談笑した後、こう漏らした。
「給料は安くてもまさに細く、長く働ける、有り難い職場でした。この年になってこんな仕事、探してもありません」
1996/3/14