窓を開け、闇に目を凝らして、初めて家が崩れたと分かった。窓から外へ。両親と祖母が寝る一階がなくなっていた。
「おやじー、おふくろー」。庄隆宏さん(42)は何度も叫んだが、返事はなかった。
神戸市東灘区御影本町の家は、築百年にもなっていた。灘の酒どころで代々、酒だるを作ってきた。庄さんもいずれ家業を継ぐ気でいた。
一九九五年一月十七日の記憶は途切れがちだ。
同じ二階で助かった弟(40)と何もできずにいたら、近所の人が道具を手に駆けつけてくれた。余震の中、二階の床をめくり、太いはりを切る…。でも、だめだった。
父の手には温かさが残っていた。泣いていたとき、誰かに「泣くな」と励まされた。その通りだと思った。
近くの西方寺では、住職が両親と祖母のために和室をあけてくれた。三人を寝かせる。弟と一緒にいたら涙が出そうで、「様子見てくるわ」と外に出た。
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同じころ、東灘区の市立魚崎小学校に勤めていた教員岡田洋一さん(37)も、学校近くの民家で救出作業をしていた。がれきの下、高齢の男性が息絶えていた。外れたドアに遺体を載せ、家庭科室に運んだ。重かった。
「救出、手伝って」。拡声器で呼ぶと、校庭に避難している人たちがすぐ集まってくれた。うれしかった。しかし、助けに出た人が戻るたびに遺体が増えた。「どうなってるんやと怖かった」
遺体は百体を超えた。体育館に集め、卓球台の上に安置した。男の子を亡くした母親から床に寝かせておくよう頼まれた。「もう少し添い寝してやりたいんです」
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人工の島、六甲アイランド。看護師井口ふみこさん(45)は当時、六甲アイランド病院で産婦人科と小児科のある五階病棟の主任だった。
激震に死を覚悟した。揺れが収まり、すぐ病室に走った。点滴台が倒れ、窓ガラスの割れた部屋もあった。大部屋では大声で泣く母親もいたが、皆が子どもを抱き締めていたことを覚えている。「大丈夫やから」。励ます声が震えた。
分べん室の妊婦も無事だった。産科医と連絡が取れず、当直の小児科医が担当することに。非常灯が突然消え、懐中電灯ひとつの明かりを頼りに、出産が始まった。
午前六時五十七分、赤ん坊の泣き声が病棟に響いた。助産師や看護師から拍手が起きた。
「一階の病棟には亡くなった人が運び込まれていたとき、生命の誕生に立ち会えた。ひとつの命の尊さを感じた」
人工島の対岸、同区御影浜町では、液化石油ガス(LPG)のタンクからしずくが滴り落ちていた。しかし、まだ誰も気付いていない。
2005/1/19