連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

1995・1・17から8
 二日目の震災 避難勧告は伝わったか

(13)風化 「経験を教訓に」議論なく
  • 印刷
LPG爆発のすさまじさを住民は記憶していた(矢印は横転したタンクローリー)=1965年10月26日、西宮市川西町
拡大

LPG爆発のすさまじさを住民は記憶していた(矢印は横転したタンクローリー)=1965年10月26日、西宮市川西町

LPG爆発のすさまじさを住民は記憶していた(矢印は横転したタンクローリー)=1965年10月26日、西宮市川西町

LPG爆発のすさまじさを住民は記憶していた(矢印は横転したタンクローリー)=1965年10月26日、西宮市川西町

 地面低く流れるもやが、夜目にもくっきり見えた。タンクローリーが歩道橋に激突し、横転していた。「ガスや」の叫び声に、様子を見に集まった人々が逃げ出した。

 爆発音が響く。道路沿いの家並みが一斉に崩れ落ち、一瞬にして火の海となった。暗きょを伝って黄色い火が延びた-。

 一九六五年十月二十六日未明、二階の窓から見た第2阪神国道(現・国道43号)の光景を、西宮市屋敷町の瓜生(うりう)明子さん(72)は鮮明に覚えている。タンクローリーに積まれた液化石油ガス(LPG)五トンが漏れ出し、死者五人、焼損家屋四十棟の惨事となった。

 その三十年後、神戸市東灘区御影本町の工務店経営大本謙吾さん(65)は避難勧告を聞き、すぐ逃げた。聞き知っていた西宮の事故を思い出した。「LPGは地面をはうから恐ろしい」と。

 記憶が行動を促した

    ◆

 神戸市東灘区の人口は震災後の減少から回復し、十年を経た今、二十万人となった。人の出入りが激しい。二〇〇三年の調査では、区民のうち、震災後の区・市外からの転入が37%、出生6%だった。

 住宅街で震災二日目の避難勧告について聞いても「知らない」という人が多い。「ガス漏れはデマだったんでしょ」と話す人もいた。

    ◆

 東灘区長だった金治(かなじ)勉さん(70)は、震災の年の三月、定年退職した。「災害対策本部の何が機能し、何が機能しなかったか、検証されていない」。避難勧告について問う私たちに、そう語った。

 両親と祖母を亡くした庄隆宏さん(42)は、震災後に結婚し、娘(7つ)が生まれた。家族ができて、生まれ育った街に戻ろうと決めた。五年前、実家の跡地に住宅を再建。父母の墓前でその報告をし、震災以来こらえ続けてきた涙を流した。

 過酷な被災体験をした人々に、避難勧告は追い打ちをかけた。庄さんは「それどころでなかった」と語る。

 避難勧告とは自然災害を含む異常事態の中で危機情報を伝える作業だ。そのあり方について東灘の経験を教訓とする議論は、これまでなかった。

 魚崎小学校で避難所の運営に携わった岡田洋一さん(37)は九七年、神戸市北区の藤原台小学校に転勤した。今は震災の年に生まれた四年生を受け持っている。

 毎年一月、震災体験を児童に語る。今年は十年前につづった記録を読み聞かせた。遺体を運んだこと、子を亡くした親の悲しみ、皆が協力して高齢者を避難させたこと。

 児童が家で授業のことを話したという。「地震が起きたとき、何をするか自分で判断できるようになろうね」。そう話し合ったと、母親が連絡帳に記してきた。

 記憶を私たちは語り継げるだろうか。

    ◆

 エム・シー・ターミナル神戸事業所(神戸市東灘区)が取り扱うLPGは年間約二十八万トン。家庭用に六割、タクシーなど自動車用に三割が消費される。六二年の創立から震災まで、事故は一度もなかった。

 社会の営みを支える、しかし、危険な施設と隣り合わせに都市の生活がある。震災によって気づかされたことを、今また私たちは忘れようとしていないか。

(記事・宮沢之祐、松本茂祥)=おわり=

2005/1/30

天気(7月24日)

  • 32℃
  • ---℃
  • 30%

  • 33℃
  • ---℃
  • 30%

  • 32℃
  • ---℃
  • 20%

  • 35℃
  • ---℃
  • 30%

お知らせ