神戸・六甲アイランドに住む神戸大学工学部助教授の大西一嘉さん(52)は、島の住民に「1月18日」の危険情報がどう伝わったか、一九九六年末に調査した。自ら“情報過疎”の不安を実感した体験も動機になった。
震災二日目、避難勧告に従った人は回答者の94%にもなる。高層住宅の館内放送で住民が一斉に移動した。ただし、車の所有者の47%が車を使った。大西さんは「車がガス爆発の着火源になる危険性は認識されていなかった」と見る。
避難所は寒く、正午ごろの食糧配給後は帰宅する人が目立った。午後六時、六甲アイランドの自治会は「自主解除」を避難者に告げた。「寒い避難所にいるのは限界」との理由からだった。
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液化石油ガス(LPG)の漏れを止められないのなら、タンクの中身を抜こう-。エム・シー・ターミナル神戸事業所での方針決定は、十八日午前八時。幸い隣のタンクに空きがあり、移送用に配管をつなぎ替えた。
東灘消防署員だった山根克俊さん(48)たちは高所放水車のアームを伸ばして出火の警戒をした。配管工事のつち音が響くたび、どきっとした。
移送には電気が必要だった。消防関係者は「試運転の通電の瞬間、火が出ないか一番緊張した」と口をそろえる。午後五時十五分、LPGがゆっくりと流れ出した。
東灘区役所では、区長だった金治(かなじ)勉さん(70)が勧告の解除を検討していた。路上で寒さと飢えに耐える避難者が窓から見えた。“自主解除”して帰宅する住民がいるとの報告も受けていた。
「外で夜を迎えるのはあまりに過酷。早く解除したかった」。だが、安全と判断する根拠がなかった。結局、LPGの流れが安定した同六時半、金治さんは「移送の条件が整った」として「いったん解除」を決めた。
移送作業には数日かかる。漏れが止まったわけでもない。しかし、住民には「解除」と伝えられた。複数のラジオ局が「移し替えが終わった」と誤って放送した。
風がやんだ二十日未明には防液堤外でガス濃度が再び高まった。気化を抑える泡が放たれた。
二十二日午前六時、ついに移送完了。その後、漏れていた元弁をテープで縛った。午後二時半、神戸市災害対策本部は、避難勧告の「完全解除」を発表した。しかし、金治さんは「私は十八日に解除した。その後、本当に状況が悪化したら避難命令を出すつもりだった。二十二日の解除は知らない」と語る。
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一方、海上の警戒は十八日以降も続いた。神戸港長である神戸海上保安部長は、ガス漏れしたタンクから半径二キロを航行禁止とした。もともと船の往来の少ない海域だが、港長が禁止を解いたのは二十二日午後三時。陸地の勧告の「完全解除」後だった。
大西さんの調査では、二十二日の「完全解除」を知る住民は9%だけだった。
2005/1/27