一九九五年一月十八日午前六時、液化石油ガス(LPG)漏れ事故での避難勧告が発令される。
「天に祈った」と、当時の東灘区長、金治(かなじ)勉さん(69)は振り返る。余震が続く中、住民にパニックが起きないか案じた。
報道機関への連絡は、兵庫県警と神戸市災害対策本部に頼んだ。パトカーやヘリコプター、東灘消防署の広報車でも直接、住民に伝えることにした。しかし、情報は錯綜(さくそう)する。
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震災当時、兵庫県警の記者クラブに詰めた神戸新聞記者のメモが残っている。勧告発令より三十分前の午前五時半の項に「避難勧告 まだ」「準備発令」との記述がある。県警に記録は残っていないが、同五時半に「避難準備勧告」の発表があった。AM神戸も同内容の県警情報を放送した。
パトカーによる広報も午前六時以前に始まったとみられる。東灘区御影本町の駐車場でたき火を囲んでいた人たちの記憶では、同五時台にパトカーが近くを走った。マイクで「爆発の危険があります。国道2号より北へ」と、緊急の避難を求めていたという。
家が全壊し、両親と祖母を亡くした庄隆宏さん(42)も、その駐車場で夜を明かした。近所の人が両親の思い出を語ってくれた。気遣いがうれしかった。パトカーの広報は覚えていないという。近所の誰かが「避難しよう」と声を掛けてくれた。
神戸市はどうか。市広報課が報道機関に提供した資料を見ると、午前六時半に東部第一、二工区への避難勧告第一号、同七時半に国道2号以南への同第二号の報道を要請している。金治さんの発令より一号は三十分遅れ、二号は一時間遅れだ。
しかし、毎日放送ラジオは午前六時すぎ、市災害対策本部からの生中継で「国道2号から南の皆様は北の方向に緊急避難してください」と呼び掛けた。実際には勧告第二号がその段階で用意されていたらしい。
東灘区魚崎中町の魚崎小学校。午前十時ごろ、校内には約二千人の避難者がいた。避難勧告をラジオで聞いた避難者が、教員の岡田洋一さん(37)に相談に来た。遺体の検視に来ていた警官に聞くと「準備勧告だから、まだ避難しなくていい」と教えられた。
岡田さんは警官と一緒に校舎を歩き、拡声器で伝えた。「落ち着いてください。避難の必要はありません」
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神戸市は午前八時、報道各社に緊急の放送を要請をした。資料には「ガスの拡散は収まっておらず、依然危険な状態が続いております。避難勧告は解除されていません」とあり、「避難対象の自宅に戻る人がいる」と書き添えられている。
一方、県警。神戸新聞記者のメモでは午前八時四十五分に「勧告 8-9割スムーズに行われている」と発表があった。ラジオも県警情報で「住民のほとんどは移動した」と放送した。
住民は避難勧告をどう受け止めたのだろう。
2005/1/22