震災後、業務を休止していたエム・シー・ターミナル神戸事業所は防災対策を強化し、一九九六年十一月、液化石油ガス(LPG)の取り扱いを再開した。
地盤が動いてタンクと元弁がずれ、漏れる原因となったため、両者を一体化させた。配管は震動を吸収しやすい構造に。護岸も強化した。また、万一の漏れに備え、防液堤内にプールを掘り、漏れた液を処理する燃焼施設も増やした。さらに気化を抑える泡を常備。震災時と同じ原因の漏れは起こらなくなった。
事業所の対策は、通産省(当時)の調査委員会の結論を踏まえた。調査委は漏れの原因を精査したが、避難勧告は管轄外として、触れていない。
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震災二日目の避難勧告は、国内最大規模の約七万二千人が対象となったが、その実態調査や研究はほとんどない。
六甲アイランドの住民の避難行動を論文にまとめた神戸大学助教授の大西一嘉さん(52)は指摘する。「被害が起きたことに研究が集中する。爆発を避けられたから、関心が向けられなかった」
大西さんも協力したが、日の目を見ていない研究が一つある。原子力の研究開発をする「日本原子力研究所」がこの避難勧告に関心を持ち、一九九六年末、勧告の対象地域のうち本土側で住民アンケートを実施した。LPGも放射能も無色無臭。事故の際、住民がどんな行動を取るか、参考になるとみなされた。
ところが、九七年三月、茨城県東海村の核燃料再処理施設で爆発事故が発生。そちらの研究に重点が移り、神戸のアンケートの分析は棚上げになったという。私たちはアンケート結果の公表を依頼したが、「検討が不十分」と断られた。
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「津波と聞いて慌てて逃げた」「勧告の解除は十年後の今、初めて知りました」-。
取材ノートには、当時の混乱をうかがわせる住民の言葉が並ぶ。私たちの印象では、勧告対象の住民の六、七割が避難した。しかし、爆発の危機に関する続報がなく、その後は独自の判断で動いてしまった。
当時、東灘区長は市長だった笹山幸俊さん(80)と連絡がつかないまま避難勧告を決断したが、法的には市長名で発令された。笹山さんは勧告をどう評価しているのか、私たちは話を聞いた。
「避難勧告の報告は、恐らく消防から事後に受けた。震災の混乱時だから『自分の仕事をしっかりやれ。独断専行を許す』と言ってあった」
「専門家でない私に爆発の範囲は分からない。区長も判断できない。危険物のマニュアルがある消防が考えること。それが仕事ですから」
確かに区長は消防署と相談したが、市消防局にもLPG爆発のデータはなかった。LPGなど高圧ガスは経済産業省の所管で、県が取り扱いを認可する。その県も爆発は想定していなかった。
笹山さんは「(勧告が)割と早く解除されて安心した」と語った。
この十年、勧告の評価が神戸市の内部で議論された形跡は、ない。
2005/1/28