震災翌日の避難勧告が救助活動を滞らせなかったのか。私たちは調べてみようと思った。
一月十八日、避難勧告の対象地域になった神戸市東灘区甲南町で、救助活動があったと聞いた。地震で倒壊した家に妹尾(せのお)智恵子さん(65)の義父母が下敷きになっていた。
こたつで寝ていた義母(81)は、倒れてきた水屋との間にすき間があって十七日に助け出された。しかし、七十二歳の義父は見つからなかった。
十八日昼から、自衛隊員二人が、チェーンソーでがれきを取り除いてくれた。近くで救出活動中だったのを、妹尾さんが頼んで来てもらった。午後五時、布団ごと押し入れの中に埋もれた義父の遺体を発見した。右目には涙の跡があった。
智恵子さんは同区森北町で被災。直後に避難した知人宅も対象地域外だったせいか、避難勧告を知らなかったという。震災時、夫は四国に出張中だった。「夫の実家に向かう途中で制止する人は誰もいなかった。勧告を知ったとしても、私が行くしかなかった」
◆
東灘消防団住吉第二分団の十八人は十七日、十四時間連続で救出活動をした。翌日も夜明けから活動するつもりで、同区住吉南町の詰め所で順番に仮眠した。
十八日午前六時前、国道43号を東へ走るパトカーが、避難勧告を告げるのを団員が気付いた。
「ガス漏れで爆発の危険があると聞き、急を要すると思った」と団員の西浦豊さん(56)。自主的に周辺住民に避難を呼びかけた。国道43号を北へ横断する人たちのため交通整理も始めた。さらに団員の大半が、車を北へう回させる誘導をした。
予定していた救出活動はできなくなった。十七日午後、生存者は既に少なかった。それでも西浦さんは「もう少し助けられたかも知れない」と、今も思う。
東灘消防署などの記録では、同区での震災死者は区別で最多の千四百七十一人。一方で、一月十八日以降も七十六人の生存者が救出されている。
◆
陸上自衛隊第三十七普通科連隊(大阪府和泉市)の三等陸曹だった安形(あがた)直樹さん(39)は、十八日午前七時ごろ、東灘消防署近くの国道2号で渋滞に巻き込まれた。東へ向かう大勢の人の波を覚えている。「大阪にでも避難するのかな」と思った。
小隊は東灘区災害対策本部の要請で住吉小学校周辺の救助に携わった。
安形さんは、今回の取材で初めて避難勧告について知ったという。当時の小隊の責任者にも確認してもらったが、「勧告が発令中と聞いた記憶はない」との返事だった。
「ただし」と責任者は言い添えた。「もし勧告を聞いていたとしても、立ち入り禁止ならともかく、救助活動に問題はないと判断しただろう」
避難勧告が発令され危険が差し迫ったとき、被災地の救助活動は誰が続けるのか、あるいは続けないのか-。検証のないまま十年が過ぎた。
2005/1/24