避難先の指定はなかった。阪神・淡路大震災の翌日未明。ただ「ガス爆発の危険がある。国道2号より山側へ」と口伝えで聞き、神戸市東灘区御影本町の庄隆宏さん(42)は、弟(40)と一緒に北へ向かった。両親と祖母の遺体は、西方寺に預けたままになった。
「何もなくなった。でも泣くまい」。庄さんは当時の気持ちをそう振り返る。国道2号まで来て「もうええやん」と思った。「避難勧告が出ている」と止められたが、国道南側の母校、御影中学校に入った。「死ぬときは死ぬ。生かされるなら、それはそれでいい」
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やはり、液化石油ガス(LPG)漏れによる避難勧告の対象となった魚崎小学校。一月十八日朝も教員の多くが出勤できず、岡田洋一さん(37)らが徹夜のまま避難所の運営を担った。約二千人がいたが、「準備勧告だから」との誤った情報で避難を見合わせていた。
勧告発令から五時間過ぎた午前十一時ごろ、警官約十人が運動場に現れ、「爆発の危険がある。すぐ2号線の北へ」と叫んだ。逃げ惑うようにして避難が始まった。
寝たきりの高齢者もいた。「死んでもいい」という女性を岡田さんは説得した。「果たして避難が間に合うか。皆を救えるだろうか」。重圧を感じ、目頭が熱くなった。
職員室のコマ付きのいすや、荷物を運ぶ一輪車に、歩けない人を乗せ、若者たちが押した。住民がトラックを出してくれた。車いすごと避難者を荷台に上げ、阪急御影駅より北側の赤塚山高校=当時=に送り出した。
しかし、遺体から離れない遺族もいた。岡田さんたちも、そのままにして学校から逃げるわけにいかなかった。
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東灘区役所に近い住吉小学校の教諭だった中山紀彦さん(44)は、十八日午前九時、同市西区の自宅を車で出る。テレビで避難勧告を知り、妻は心配したが、宿直を任されていた。十七日の避難者は約二千二百人。様子を見に行こうと思った。
勧告が出て、当時の教頭滝川文雄さん(57)は、教員を帰宅させた。中山さんは残った。滝川さんと二人で避難者に退去を促し、自分たちも離れるつもりだった。消防団員に「先生も早く避難を」と言われていた。
高齢者が多かった。命令はできず、「危険情報を流すしかできないが、その情報もなかった」と滝川さん。それでも避難者が減って安どしていると、午後の小雨でまた増えた。寒さに震える人を追い返せなかった。
「もう大丈夫だろう」と、自宅に防寒具を取りに戻る人も多かった。
午後三時、勧告が出ているのに、区役所からリンゴが届いた。一人一個ずつ配り、避難者数は百九十二人と分かった。
中山さんは避難をあきらめた。浜手のガスタンクの方向を見定め、職員室の太い柱の陰に段ボール箱の寝床を用意した。
2005/1/23